縄文の甲子園


 青森市の三内丸山遺跡は皆さんもご存知のように、それまでの縄文観を塗り替える衝撃的な発掘だった。数千年もの長きに渡った先人の営みの証が次々に出土され、現代の我々に強烈なメッセージ投げかけてくれた。三内丸山は、縄文に興味あるものにとってはまさに「縄文の甲子園」と言える所で、発掘以来その見学者は今もひきもきらない。
 我々縄文太鼓の打ち手メンバーも次の研修旅行の目的地として予定していた矢先、ひょんな事から「ぼたもち」は突然に落ちてきた。7月末の事、9月に行われるという三内丸山でのイベント「縄文フェスタ」への出演依頼が飛び込んできたのである。

 まるで修学旅行前の小学生の様なワクワク気分の準備が進み、いよいよ出発当日。だが、メンバーが一番心を砕いた事は、バスの中でのビールの本数の事と、飲酒禁止という遺跡公園内でいかに見つからないようにアルコール補給をするか、の二点だった。
 午後9時、楽器をトラックに、大量の酒類をバスに積み込み我々「縄文一座」は一路青森へと旅立った。早速、最近無理矢理加入させられた女子マネージャー制作の「おきて」が車内に張り出され、全員声を合わせ唱和する。その骨子は(1)ワガママをするな。(2)勝手にどっかへ行くな。(3)女の私に危害を加えるな。の三点だった。要するに過去の演奏旅行の反省点を繰り返すなという事であり、特に(3)はマネージャー自身の悲痛な叫び、とも言える。何はともあれ、ビールの空缶の増加に比例するように車は順調に東北道の北上を続け、翌朝無事三内丸山到着。

 遺跡公園はまだ早朝というのに今日のイベントの準備の為、大勢のスタッフで賑わっていた。ここのウリである復元された巨大な掘立柱遺跡は、威容な存在感で公園全体を見渡し、やはり大きな復元住居がここが縄文の都であったことを物語っている。
 簡単な打ち合わせを済ませ、オープニングセレモニーの「バラエ」と「ガモス」の演奏が始まる。曲に合わせ昨年の「縄文回廊」で共演したダンシングチームに依って炉への点火が行われ、「三内丸山・縄文フェスタ'97」は幕を開けた。
 実行委員長や県知事は、見事な毛皮の縄文服に身を包み挨拶を、掘立柱の栗の木を提供したロシアの使節団には感謝状贈呈が行われた。
 公園のそこここでは、ゲームや縄文食の販売、縄文グッズの製作体験や販売等、ほぼ当地の縄文祭りの様なイベントが同時進行で行われている。観光バス等での県内外からの参加者が、続々とやって来ている。
 我らが縄文太鼓は、控え室代りのテント前に楽器を移動し、縄文太鼓体験のワークショップを開く。色んな人達が興味を示し楽器を叩きに来る。いつしか自然にそんな人達とのセッションが始まる。基本のリズムは勿論、ねぶたの弾むリズムだ。本番を前にすでにヘトヘトとなる。隠れ飲むビールの酔いが、さらにそれに拍車をかけているのはお察しの通りだ。
 時折日の差す絶好の天候の下、いよいよ本番。静かに「ドンコ」で幕を開ける。いつも通りのいい演奏だ。“村人達”の反応もなかなか。「レラ」ではダンシングチームに混じって一緒に踊ってくれるし「ゴエラ」でも公園内に響き渡る大声の合唱。再び「ガモス」でクロージングセレモニーのバックを務め、イベントは無事終了した。

 三内丸山は確かに学術的にもすごい遺跡だし、観光客の数も多い。…でも、総合的に見たらやっぱり、長井の古代の丘の方がいいな。堤があるのがいいし、周りはたっぷりとした自然に囲まれてる、何よりほっと出来る場所なんだよな。縄文まつりだってとってもあったかいし…。これがメンバー達の正直な感想だった。
 その晩は青森市内の津軽三味線が聞ける店で、たらふくライブと酒を楽しみ、翌朝は市場で“うに丼”を食べた。とても充実したそしてオイシイ演奏旅行だった。

 ところで我々縄文太鼓はこの盛り上がりに乗じ、この冬長年の夢だったCD制作にいよいよ取り掛かる事となった。完成のあかつきには、是非一家に一枚、縄文太鼓のCDをよろしくお願いする次第です。


1997.OCT 縄文太鼓 金子俊郎

ものおきに戻る  次のファイルに進む