縄文人ってエライ!


 縄文、と言うとどうしても何千年も昔の事で、古代のロマンだとか大昔に生きていた野蛮人の生活、程度のイメージしかなく、現代の私達とはまったく無関係だと考えてはいませんか。「そんなことないよ」と言う方には「ごめんなさい」と素直に謝るしかないが、ともかく私達が縄文太鼓を通じて感じて来たのは、縄文はついこないだまで生きていた、という想いである。とは言っても、べつに長生きの縄文人が最近お亡くなりになった、というのでは勿論ない。縄文に生きた私達の祖先がその生活を通じて考えてきた事やその子供に教え込んできた事、言い方を変えれば、縄文人の生活の中から育まれてきた世界観とでも言うべきものが、私の親父達の年代迄は確かに伝えられて来たのではないか、という事である。それが、ここ数十年の高度経済成長と呼ばれる生活の急速な変化のなかで、忘れ去られ、または切り捨てられて来たように思えてならない。自然破壊だとか公害だとか、現代に生きる私達が漠然と感じている不安は、もしかしたらそこから来ているのではないだろうか。
 「縄文人の世界観ってなに?」さっそくのご質問ありがとう。お答えするほどの正確な知識などほとんどないことを前もってお断わりしといて、私なりの考えをひとくさり…。
 縄文の暮らしは、狩猟採取といって、魚や小さな獣を捕ったり山菜や木の実を採ったりして食べ物とし、それを捕るための道具や保存の為の工夫、また、美味しく食べる為の方法などすべての事に知恵を働かせながら生活していた。しかし、そのすべてが大自然からの恵みであり、気まぐれな自然の前に右往左往する事もあったろうし、様々な病は、我々の考える以上にそのダメージは大きかったろう。そんな中で縄文の人々は自然そのものを神とし、その脅威の前にはひざまずき、豊かな恵みを授かったときには心からの感謝を捧げる。そんな祈りの毎日ではなかっただろうか。きっと、縄文人は自分達人間のことを、人間以外の存在、例えば虫や獣、草や木、石ころや土にいたるまで、すべてのものが神(自然)の前では同列のものと考えていたのではないだろうか。そして、そのすべての存在の中にはそれぞれの神が宿っていると考えていた。だから、物は決して粗末に扱う事はなかったろうし、すべてのものに対してやさしく謙虚に暮らしていたのだろう。
 思い出してみてください。あなたのおとうさんやおじいちゃんが、何かをたとえにしてそんな事を教えてくれたことがありませんでしたか。
 人間には、人間にあった生活のスピードがあるような気がする。縄文時代はおよそ8千年。急に生活が変わり始めたのは数十年前から。そのたった数十年の間のあまりに速い移り変わりのなかで、私達は色んな大事なことを置き忘れてきてしまったのだと思う。
 耳を澄ましてみて下さい。「人間は決して、この地球上で唯一選ばれた生き物ではないし、全てのものが人間の為にあるのではない。勘違いするんじゃないぞ。」そんな縄文人の声が聞こえてきそうな気がしませんか。 これから私達が、そして私達の子供や孫達が、ずっとずうーっと、この地球上で平和に暮らせるように、いま、縄文の人々に教わらなければならないことが、いっぱいあるように思えてならないのです。
 だからやっぱり、縄文人って、エ・ラ・イ!


1990.OCT 縄文太鼓 金子俊郎

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