縄文への階段


 すでに、体験済みの方も多くいらっしゃる事と思うが、中里堤の西の、水の広場から星の広場へと続いている階段がある。私など、かなり体力が充実している時でさえ、少なくとも3回は休まないと上まで辿り着けないと言う、例の代物である。
 5年程前の事。縄文太鼓の連中で、中学生から歴史の本を借り出し、有名な歴史上の事柄を書いた板切れを、一段20年と考え下から順に立てて行った事があった。全部で198段あるその階段を上まで登ると、およそ4千年前の縄文時代前期にワープしていると言うものである。全部で40枚近くの立て札を用意したのだったが、私達が試験勉強で必死に暗記した事柄は、最初の数十段に集中し、半分まで登るとそのほとんどは無くなってしまった。あとは、ほんの少し弥生時代があり、その上は全部縄文時代という1枚の立て札のみになってしまった。それでも、縄文時代の始まりは、約1万1千年も前からな訳で、そこまで溯るにはあと350段もの階段が必要となるのである。日本の歴史を考える上で、我々の頭にある時間の長さの感覚が、こんなにも違うものかと驚かされてしまった。

 考えてみると、縄文時代は実に長い時間を費やし、じっくりと様々な文化を培かって来た時代なのである。そこに生きた我々の祖先は、親から教わった様々な生活の知恵や技術を自分のものとし、それを子供に伝え、またその子供が孫へ…。そうした、気の遠くなるような過程を経て、現代の我々まで引き継がれて来たものは沢山あると思う。例えば、毒きのこと食べられるきのこ・薬草と毒草の区別。それが解るまで、一体幾人の先人達が腹痛をおこしたり、命を落としたことだろうか。
 我々の生活の土台となっている生活の知恵の中には、確かに縄文が息づいている。しかし、切り捨てられたり、忘れ去られたり、失ってしまったものの方がはるかに多いように思える。それは、特に縄文の精神文化ではないかと私は思えてならない。単に、古いものが失われていく事へのノスタルジーでは、決してない。大袈裟かも知れないが、もしかすると、人間の未来にとってそれを取り戻す事が、今、一番必要な事かも知れないのだ。 階段の例のように、私たちの生活が加速して変化し始めたのは、やはりここ数十年である。その急激な変化を後押ししてきたものは、「経済効率」と言う、およそ人間性に欠けた考え方ではなかったろうか。自分さえ良ければそれでいい、と言う考え方である。子供達のいじめや、環境破壊に至る迄、様々な現代が抱える問題は、すべてそこから来ているような気がしてならない。
 縄文の遺跡から発掘される、様々な形や文様の土器や石器類、意匠を凝らしたイヤリングやブレスレット、土笛の優しい音色。それらが語り掛けて来るのは、決して野蛮人の雄叫びなどではなく、形あるもの全てに魂が宿ることを信じ、自然の一員として謙虚に、そして逞しく生きた、優しい縄文人達のささやきである。

 縄文は私達日本の特有の文化である。それも、この東北地方が(ブナ林が発達していた為)そのメッカだったと言う。つまり我々は、その素晴らしい精神文化を持った縄文人の末裔な訳である。私は、そのことを誇りたい。そして、少しでも、その縄文の心を子供達に伝えて行けたらいいなと思う。

 あの当時縄文太鼓で立てた立て札は、余りにみすぼらしく、今は練習場の片隅で寂しい余生を送っている。が、その代わりに、ちゃんとしたものが今でもあの階段に立ててあるので、まだ未体験の方は、そんな事を考え一段一段踏みしめながら、縄文時代へワープしてみるのもなかなか面白いものと思う。
 ただ、くれぐれも体調の良い時にどうぞ。二日酔いではちょっと…。


1989.OCT 縄文太鼓 金子俊郎

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