こうした背景のもとに生まれた、この地域の老農が抜穂(ぬきほ)選種法を伝え、熱心な農家が地道に抜穂を重ね、その極一部だけが世に名を残しのである。本町の場合、特に例をみないほど、その傾向が強い。

 亀治がそのような状況下の余目に産まれてから、様々な農業改革が行われているが、それが大きく影響を及ぼしているようだ。

 その一つ。明治7年に2代目県令が奨励した「乾田馬耕」により、今までの収量の倍近く生産されるようになった。これも実は、余目の農民が考案したとされている。

 次に、北楯大堰の恩恵を受けている地域で抜穂選種法が伝わり、品種改良が進んでいて、余目が度々冷害で苦しんでいるときに「大野早生」という品種が明治3年(正式発見は同年13年)に創選されている等、こころざしある農民にとって「なにかをなしたい」という気概が備わってきていたのだと思う。

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