水稲「亀の尾(かめのお)」を創選。乾田馬耕・耕地整理事業などの農事功労者。
 現在の余目町小出新田、阿部喜一家出身。

 亀治は当時の「岡所」で小出新田の農家に明治元年に産まれている。稲作は行われていたが、水利が不便であったため、一年中水を掛けていた。よって、稲刈りの時期でも「たんぼ」がぬかるんでいて、ヒザまで沈んだ。こういうたんぼを「深田」と呼んでいた。当時の多くはこういった「たんぼ」であった。

 時代背景としては、明治維新以来、庄内地方では民間育種家が活発に水稲の新品種創選に取り組んでおり、その成果は目を見張るものがあった。これは全国的にも例を見ない。それは今日のように農業機械や肥料や栽培法も発達していない当時としては、米作の収量を左右したのは天候と品種の善し悪しであったからだ。そこで人為的に変えることの可能な品種の改良に眼が向けられたとの識者の見方もあるが、これはこの地方に限ったことではない。

Copyright 2000-2001 創造ネットワーク研究所 All rights reserved.