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縄文一座 見参! 《青森・秋田珍道中の巻》’94.4.8〜10


四月八日

 「おいっ!パンツは?靴下はっ?」ほとんど断末魔に近い叫び声が、家中を飛び交っている。
 行動開始予定の時刻、午後八時。俺はその準備がはかどらず既にパニックに陥っていた。ましてや
つい今しがた、同行メンバーの一人であったコージが、体の不調の為行けなくなったとの電話があり、
その混乱にさらに拍車を掛けていた。ほどなく迎えのコーイチが軽トラでやって来た。手当り次第荷物
をバックに詰め込み、ワゴンを借りる事になっているサガミ屋宅へと車を走らせた。
 なんと、サガミ屋では朝の八時に借りにくるものと勘違いしており、いつまで待っても来ないので俺の
家に電話した旨。堪忍、堪忍!七人乗りのタウンエースと車を交換し、ヒロユキとマサヒコをそれぞれの
自宅から拾い、集合場所の西根地区公民館へ向かった。
 到着したのは集合時間から既に三十分以上過ぎており、待っている筈のカネオとエーコがいない。マ
ネージャーであるカネオからは補助金を、紅一点のエーコからは練習の為貸していたサンポーニャを見
送りついでにそれぞれ受け取ることになっていた。間もなく二人は、半分怒ったような顔をしてやって来
たのだった。無理もない。手当たり次第に楽器を車に積めるだけ積込み、二人に見送られ出発したの
は九時半を廻っていた。

 運転は、風邪ぎみではあるが、行けるところ迄自分がやってもいいとマサヒコが言った。なにせみん
なが飛び切りの飲んべぇな訳で、一刻も早く酒にありつきたいのだから、その有難い申し出が即刻承
認されたのは言うまでもない。早速近くの酒屋でビールやツマミを買い込み、道中の無事を祈りつつ
祝杯をあげる。
 おっと、まだもう一人いた。職場の飲み会に行っているヨシカズを拾ってこなくてはならないのだった。
 荒砥駅近くのその飲み会の場所に着くと、すでに二次会への移動の刻限となったらしく、千鳥足の男
達がその会場からようやく出てき始めたところだった。真っ赤な顔をし、いつもよりさらに饒舌になっ
たヨシカズを車に引きずり込み、ようやく縄文一座の珍道中は始まりとなった。

 去年の七月、長井の市民会館を会場にわらび座の音楽劇『ブナがくれた笛』の公演があって、その
取り組みに縄文太鼓も関わっていた。そのプレイベントとして、『縄文の一夜VOL2』というわらび座の
音楽班とのセッションを行った。雨太鼓と言われる縄文太鼓の面目躍如、朝からのザーザーぶりの雨
にたたられ、そのイベントは縄文太鼓の練習場で行われた。が、そんな天候にもかかわらず、わざわ
ざ遠い田沢湖町から道に迷いながらやって来てくれた人達もいて、大変感動させられた。その後の打
ち上げがおおいに盛り上がったのは言うまでもないが、是非わらび座にきて演奏を聞かせて欲しいと
の要請があった。
 元来単純な脳細胞の持ち主である我々は、すぐさまその気になってしまった、という訳である。

 当初のもくろみとしては、楽器を全部持ってフルメンバーの演奏を聞いてもらおう、と言う手筈だった。
偶然我々が申し込んだ日程が、長井公演でお馴染のリンちゃんやのぼる達の合同結婚式の日にぶ
つかり、都合が良かったのか悪かったのか、色々悩んだ挙句、手持ち楽器だけで披露宴の席で演
奏すると言う事になった。
 そしてその出発の日が近づくにつれ、都合が悪いということで一人減り二人減り。その度毎に宿泊
人数を訂正し挙句の果てに当日のキャンセルまで出てしまい、ついには総勢五人のいささか寂しい
旅となってしまったのである。
 ちなみにこの残った五人が、縄文太鼓選りすぐりの飲んべぇであることは付記して置かねばならな
いだろう。

 車内は既に宴会場と化していた。ほぼドンチャン状態である。朝日町、寒河江を経由し国道四十八
号線へと車を走らせる。いつの間にか雨が降りだし、外はかなり冷えこみ始めている。そんなことは
全くお構いなしにマサヒコの持ってきた手料理を肴に、車内はひたすら盛り上がり続ける。 
 ま、まずいっ、酒が切れた。これは例えば車のガス欠よりも我々にとっては重大事である。ほとん
ど奇跡的に十一時の販売終了五分前に作並温泉のビール自動販売機を発見できたのは、この連中
の酒に賭ける執念以外の何物でもないだろう。
 マサヒコは、運転代行で乗り慣れているとはいえ、しかしタフである。体の不調を押し、さらに尋常
とも思えない車内の喧噪をものともせず、ひたすら雨の東北道を走らせ続ける。

 「折角秋田まで行くんだから、ついでにどっか縄文にちなんだ所でも見学してみんべ。」日本人の
悪い癖で、一つの目的だけでは飽き足らず何でもかんでも行程に組み入れ、てんこ盛りの忙しい旅
にしてしまう。当然我々もその例に漏れず、そのどっかを捜しまくるのだった。
 縄文太鼓と言うのが我々の他にもある、と言うのを数年前から耳に挟んでいた。その存在をはっき
り教えてくれたのは他でもないわらび座だった。その縄文太鼓は青森県の日本海に近い森田村に
あり、彼らが手作りした土器太鼓をメインにした太鼓のグループだとのこと。そしてわらび座の数人が、
その森田の縄文太鼓から譲り受けた土器太鼓を持って、我々との交流のために来てくれたのだった。
 しかし、行っては見たいが地図で見た森田村はえらく遠い。生まれつきズボラな性格で、カッチリと
した計画に乗っ取って行動するのは、あまり得意でない事もあり、出発当日の気分次第で決めよう
と考えていた。そんな訳で向こうの代表の電話番号だけは控えていたが、どうなるか判らないので
連絡もしていない。
 そんな状況なのに、出発しビールで乾杯した直後に上程された、森田村縄文太鼓アポ無し突撃訪
問の議案は、満場一致で承認されてしまったのである。


四月九日

 車の停まる気配で目が覚めた。俺は酔いと疲れでだいぶ寝てしまっていたらしい。時刻は既に朝
の三時半。黒石インターチェンジ手前のパーキングエリアだった。小用を足しブラックコーヒーを飲み
軽く体をほぐしてからマサヒコと運転を替わる。
 恐れていた事態になってしまった。本線に出て少し走るとみぞれが完全な雪になってきたのである。
追い越し車線や路肩は既に真っ白。温暖な南国からやってきた我々の車は、当然夏タイヤに履き
替えられている。試しにブレーキを軽く踏んでみる。期待通り、車は見事にスリップするのだった。
 ふいに、新沼謙二の♪降り積もるー雪雪雪さざめ雪ぃ……歌が口からついてでた。眠気どころの
騒ぎではない。首筋にしたたる冷や汗を他の連中に悟られぬよう平静を装いながら、慎重に慎重に、
ついさっき決まった当面の目的地、鰺ヶ沢温泉へと車を進める。
 弘前市内を抜け岩木山の麓に掛る頃、夜が明けてきた。雪は夜明けとともに止んではいたが、
相変わらず路面には積雪が残っており、途中、今しがた落ちたばかりであろう乗用車を横目に見
ながら、五時前、無事日本海へと出ることができた。
 大宰の故郷の海は期待にたがわず、深い悲しみを湛えているかのような重く暗く沈んだ表情で
我々を迎えてくれた。

 『鰺ヶ沢温泉』そう地図にははっきりと載っている。大きな温泉街を頭に思い浮かべながら鰺ヶ沢
へと向かう。ない。温泉街など何処にもないのだ。五能線鰺ヶ沢駅にも行ってみたが、案内板もや
はりなし。地図を頼りにしばし彷徨の後、さっき気付かず通過したところに、ようやく町営の温泉らし
い施設を発見。看板を見ると確かに鰺ヶ沢温泉とある。
 しかし時刻はまだ五時半、当然人の気配すらない。だが、こんなときでも我々縄文太鼓は決して
ひるまない。敢然と管理人室に向かい声を掛けることしばし。ようやく、年にしては少々派手めのネ
グリジェ姿の管理人のおばさんが、半分怯えながら何事かとドアの隙間から顔を覗かせた。とりあ
えず決して怪しい者ではないこと、はるばる遠い山形から、それも雪道を夜通し運転しやって来た
こと等を、すがるような視線を交えて説明し、結果、快く入浴の特別許可を得ることができた。
 風邪ぎみのヒロユキとマサヒコを車に残し、故郷創成資金によって造られたという広々とした湯船
に浸かり、旅の疲れを癒す。海の近くの温泉のせいか、かなりしょっぱい温泉だった。リフレッシュ
したところで、第一の目的地森田村へと向かう。

 六時半頃睦奥森田駅到着。しかしこんな時刻では、いかに常識はずれの縄文太鼓と言えども、
人と会うには早過ぎる。駅の案内板を参考に『つがる地球村』と言う所に行って見ることにする。
 さすがに村というだけあって、それも早朝ということもあり、寂しい街ではある。しかし駅から五分
位山の方に上った所にある地球村は、まるで別世界の素晴らしい施設だった。
 これもおそらくは、例の故郷創成資金を母体として造られた施設群には違いないだろうが、まず
驚かされたのは、人造湖を正面にしてすり鉢を半分にしたような形の屋外円形劇場の、古代ロー
マのコロセウムを彷彿とさせるような、すごいスケールと立派な造りだった。何でこんなものがこん
な村に…。
 さっそく車から太鼓を一つ持ち出し、観客席の一番上からアフリカンっぽいリズムを叩きながら、
中央のステージへと下りて行ってみる。いい音だ。いつしか満員の観客のなかで叩いているような
錯覚に陥り、思わず一人、ノってしまっているのだった。
 車に戻り朝食のパンを貪っていると、突然ヒョウの様な大粒のあられがすごい勢いで降ってきた。
この津軽は、果たして俺達を歓迎しているんだろうか、それとも…。
 あっと言う間に地面は真っ白になってしまった。
 次に縄文の遺跡に行って見るつもりだったが、道が解らずログハウス造りのペンションの様な建
物に入ってみた。宿泊施設も兼ねているせいか早朝にもかかわらず、受付嬢とおぼしき若い女の
子が仕事の準備に取り掛かっていた。ヨシカズと二人で中に入りフロントで声を掛けると、これが
また美人である。むさくるしい男ばかりの旅をしてきて、初めて見る女の子ということを多少割り引
いたとしても、やはり美人である。縄文の遺跡のことやこの地球村のことなどを尋ねると、パンフレ
ットを差し出し笑顔で応対してくれた。実は我々は山形からやってきた縄文太鼓で、この森田村の
縄文太鼓に会いに来たことを明かすと、その縄文太鼓を主謀する《石神もつけの会》の事や代表
の宮崎龍美さんの事等を親切に教えてくれ、さらに宮崎さんの自宅までのわかり易い地図まで書
いてくれた。森田村大好き人間が、今しがた確実に二人増えた。
 感謝の言葉を述べ何となく浮き浮きしながら建物を出る、と、ヨシカズがにたにたしながら俺の
耳元に囁いた。「いいにおい」。しっかり彼女を嗅いできたらしい。

 さっきのあられで真っ白になった坂道を恐る恐る下り、森田村の公民館に向かう。時刻はようや
く七時半になった。まさか突然自宅を訪問する訳にも行かないので、とりあえず公民館の電話ボ
ックスから電話を入れた。
 これこれしかじかの理由で、突然のことで誠に恐縮ではあるが、ぜひあなたにお会いしお話をお
聞きしなければ、二度と山形には戻れない旨を嗚咽まじりに訴えかけると、すぐに行くからそこで
待っているようにとの事。程無く、その宮崎さんは人なつこい笑顔を浮かべながら歩いてやってき
た。
 年の頃は俺より三つ四つ上だろうか、何となく話の合いそうな人である。さっそく縄文太鼓同志
の固い握手を交わし、練習場となっている公民館に入った。
 宮崎さんはここの主事をされているということで、手際よく美味しいコーヒーを我々に入れてくれ、
お互いの自己紹介を行った。楽器を見てくれということで、体育館に通された。まず目を引いたの
は、2メーターは優に越すと思える直径の、円盤型の太鼓だった。後ろには円錐形の骨組みが
それを支えている。皮の部分を下にして置いてみると、竪穴式住居のような形になるので、竪穴
型縄文太鼓と言うのだそうだ。この太鼓はオリジナルのデザインで特注で作ってもらったものだ
とのこと。ただ、大きすぎてこの体育館のドアから出し入れするときはかなりの苦労を要すると言
う事だった。それから普通の和太鼓も数々あり、お目当ての土器太鼓は、倉庫の奥の方に大事
そうに保管されていた。
 これは以前わらび座の人達が持って来たのと同じもので、底無しの円筒形土器の片面に皮を
張った石神縄文土器太鼓と、径の違う太鼓が四つくっついたような多孔型土器太鼓というのが
あった。
 さっそくその土器太鼓を出してもらい叩いてみる。底がないせいか、スコンと抜ける乾いたいい音
がする。かなり固い皮だ。どちらかと言うとカリブっぽい印象の音である。
 宮崎さんが叩き始めた。うわっ、すげぇ! 実を言うと、我々の縄文太鼓は間借りなりにも十三
年程の歴史があり、ひきかえこちらの縄文太鼓はせいぜい六・七年と思われる。歴史の長い短
いがその内容の優劣に直接関係すると思っている訳ではないが、どうも我々はなんとはなしに、
こっちの太鼓を少し見くびっていたフシがある。まいったなぁ、こりゃかなわねぇわ。プロだよこれ。
 我々の冷汗がらみの無言の驚嘆には全く気づかぬ様子で、宮崎さんはひとしきりアドリヴを叩
き、その音が体育館に響き渡った。拍手するしかない。
 その他にも宮崎さん達手作りの楽器がいっぱいあった。土で作った鐘や鈴、土琴とでも言うよう
な楽器。それから各地の民族楽器。やはりどこにでも同じような人間はいるものだと感心してしま
った。
 宮崎さん、今度は何の変哲もない、掌にはいる大きさの石をふたつ持ち出す。楽器だという。
掌の上でそのふたつの石を打ち始める。何と、音階が出るではないか!片方の掌を広げたりす
ぼめたりして音を調節している。負けず嫌いの俺としては、さっそくそれを宮崎さんから引ったくり
鳴らしてみるのだった。面白い、実に面白い。その内うちの縄文太鼓でも使わせてもらおうっと。
 もう一度ロビーに戻りいろいろな話を聞かせてもらう。まず石神もつけの会の事。この森田村に
は、一つの場所から縄文の各時代の遺跡が層を成して出土するという、全国的にもあまり例の
ない石神遺跡がある。その石神遺跡をベースとした村づくりの会として、無類の森田村大好き人
間が集まったのがこの石神もつけの会なのだそうだ。
 ちなみに“もつけ”とは、津軽弁でおせっかいとか世話好きというような意味の言葉だそうである。
 最初は和太鼓から始まったそうだが、値の張る太鼓のこと、そうは数を揃えることができず、最
後に辿り着いたのがこの手作りの土器太鼓だったということである。その経緯は我々にとっても
想像に難くない。和太鼓を中心とした石神太鼓、土器太鼓を中心とした石神縄文太鼓のふたつの
バージョンがあるそうだが、最近は縄文太鼓のほうのリクエストがほとんどだそうである。
 音楽の方向性や作編曲は、さっきの太鼓でもわかるように、色々な音楽に造詣の深い宮崎さん
がその中心人物であることは、たぶん間違いないだろう。どのような演奏なのか是非一度聞いて
みたいと思う。
 先程の円形劇場のことを、あまりのすごさにびっくりした話を含め尋ねてみた。あの劇場は五千
人の収容能力を持つとのこと。ちなみにここ森田は、五千余りの人口しかない村である。
 そこのこけら落としでは、あの細野晴臣に企画を委託し、細野のバンドが演奏するシンセサイ
ザーの音楽の中、森田村の住民千人に松明を持たせ、上からゆっくりとステージに向かて入場
するという、何とも幻想的なオープニングをやったのだそうだ。またその演奏の中にも、さっきの
石のパーカッション部隊として、森田の人達が参加したと言うことである。
 どうもそれらの企画にはこの宮崎さん達が、一枚も二枚も噛んでいたようである。
 その後も、数々のミュージシャンがこの円形劇場のステージを踏んでいるとの事だった。秋吉
敏子のジャズコンボや、ロックフェスティバル、また最近では、レゲエのメッカとして、日本中のフ
ァンの注目を集めている場所でもあるらしい。
 こんなに辺鄙な、こんなに小さな村の、何処にそんなパワーがあるのだろう。
 同じ青森でも、津軽と南部ではかなり気質が違うという。南部はどちらかと言うと上品で堅実な
生き方であり、それに比べて津軽は、酒飲みで博打好きの豪放な人間が多いのだそうだ。その
せいで津軽には人口の割に飲み屋とパチンコ屋が非常に多いのだと、宮崎さんは嬉しそうに説
明した。そんな堂々たる津軽弁で話す宮崎さんの口ぶりからは、この津軽を愛し、誇りを持って
生きている事がうかがえた。

 どうも感覚が違う。
 我々山形人には、意識の底のほうに東京コンプレックスとでも言うべきものが、存在しているよ
うな気がする。その表れが、例えば高校を卒業しあこがれの東京の会社に就職する、と、急に方
言を気にしだし、半年くらい別人のような寡黙な人になってしまったりする。そいつがたまに国に
帰りクラス会で昔の友達にあっても、方言ではなく「だからサー」言葉で変によそよそしかったり
するのだ。
 また、案外年寄り程昔からの伝統や、故郷のよさについて誇りをもって語ろうとしない。土建屋
の利権の為の物としか思えないスーパー林道なんて物を、本気で推し進めようとするのもその年
代だ。何処の田舎町にもひとつぐらいは、東京から運んで来たようなその町に不似合いなビルデ
ィングが、居心地悪そうに建っている筈だ。
 それは多分に、縄文人の自然と共生した平和な暮らしを、侵略者である弥生人達が、農耕文
化の導入と供に征服していったところから来ているような気がする。それ以降東北は、文化果つ
る国として、白河以北ひと山百文として、一段低く見られてきてしまった歴史がある。そのことが、
中央に対するコンプレックスとして、東北人の心の奥底に深く染み付いてしまったように思える。
 しかしそれ以前の東北には、梅原猛が言うように、豊かなブナの森が育んだ、世界に類を見な
い程の高く深い文化を誇った縄文文化が栄えていた。梅原は言う、今の物質文明は限界に達し
ていると。そして、これからも人間がこの地球上で生き永らえて行くには、縄文の精神文化を思い
返すことが必要だと。東北人は、その縄文の末裔として誇りをもって、その血の奥底にあるものを
再認識し、そしてそれを世界に向かって発信して行かねばならない、と。

 考えてみるとこの津軽には、その縄文文化のなかでも最高の域に達したと言われる、亀ヶ岡
式土器を生んだ亀ヶ岡遺跡がある。あの有名な遮光器土偶の出土地だ。この森田村とは目と
鼻の先である。
 もし人間の遺伝子の中に、数千年前の記憶が残るものだとしたら、宮崎さんの話振りや、つが
る地球村の事は何となく合点が行くような気もする。この津軽の人達は、本州の一番端っこに
どっしりと構え、この場所から日本全国を、果ては世界中を見渡しているような、そんな気さえし
てくるのだ。
 そう考えると、つがる地球村と言うネーミングは、この津軽にして実に当を得た名前だと言うべ
きだろう。

 そうこうしているうち、二人三人と若い人達が集まってきた。もつけの会の太鼓のメンバーとの
こと。これから盛岡の何とかホテルと言うところで、演奏があるのだそうだ。出発の時間が迫っ
ているとのことなので、軽く自己紹介をし、いつの日か縄文太鼓同志の演奏会の実現を約束し、
おいとますることとなった。

 自分の生まれた故郷は、好きであれ嫌いであれ、一生自分の生まれ故郷として意識せざるを
得ない場所だ。ましてそこで生きて行く覚悟を決めたからには、他の場所での自分の可能性を
いつまでも未練たらしく引きずって、諦めの気持ちでその場所で生きて行くのは、余りに空しい。
どうせならもっと前向きに、その故郷の良さを発見し、誇りをもって生きて行くことのほうがずっと
楽しいのに決まってる。
 俺達の縄文太鼓もそうだし、この森田の縄文太鼓もまさにこの津軽に誇りをもって生きている。
そのことを確認できたことが、何よりも嬉しかった。

 十時前、みんなに見送られながら公民館を後にしたが、車内の一行はなぜかそれぞれに興奮
ぎみ。 森田に来て、本当によかった……。

 車は一路、海岸線を走り田沢湖町へと向かう。運転は相変わらず、俺。期待もしていないが、
替わってやろうか、なんて言う心優しい奴は勿論、一人もいない。さっそくビールを買い込み乾杯
してやがる。悔しいから非難ごうごうの中、俺も……。
 ほんとはめったに来れないから、森田からさらに上がって十三湖に行ってみたかったのだが、
反対の声多数で、即却下となったのだった。それに今思えば、何故あの時亀ヶ岡遺跡の事を思
い出し立ち寄らなかったのか、後の祭りである。

 今朝方の天気が嘘のように晴れ上り、岩木山を左手に、右手には明るい日本海を見ながらの
快適なドライブが続く。千畳敷という平らな岩場の海岸に降り立ち、観光気分の記念撮影。眺め
の良い高台の休憩所では、海に向かって連れションを試みるが、すごい向かい風の為、なかな
かうまくできない。その後も、ビールばっかり飲んでいるから、まるで犬の散歩のように、そこら
中でションベンブレイクである。まったくしょうもない。
 腹が減ってきた。何か美味いものをと言うことで、秋田名物稲庭うどんを食うことになった。実際、
さっき訪ねた森田村もそうだが、この秋田のことも下調べなどまったくしてないから、何が名物な
のかなんて事は、秋田音頭に出てくる程度にしか知らないのだ。♪ハァー秋田名物八森ハタハ
タ男鹿でオガブリコッ、ハァコリャコリャ……。
 能代を通過し、大潟村の広い運河を横目に見ながら、一時半、ようやく秋田市の入り口までや
って来た。稲庭うどんの大きな看板の店を発見し、やっと昼飯にありつくことができた。ヒロユキ
に運転を押しつけることに成功し、おおっぴらに飲んだビールが実に美味かった。コーイチは勿論
地酒の冷酒を、これまた美味そうに飲んでいる。
程無く運ばれてきたそのうどんは、実にコシがあり我々の期待を裏切らなかった。
 国道十三号に入ったあたりで、ちょっと長めのまばたきをし外を見たら、もう田沢湖町のわらび
座に着いていた。時計を見たら一瞬のうちに、すでに三時を廻っている。ワープってやつか……。

 車を広い駐車場に入れ、手荷物をぶら下げゲストハウスのフロントに向かう。と、長井公演で顔
なじみの座員が所々にいて、久しぶりの再会の握手を交わす。明日の合同結婚式のため、方々
に散っていた座員がほとんど集合しているのだろう。
 ロビーに行くと越郎が迎えてくれた。我々の接待係をしてくれるという。越郎は、去年の二月の
厳冬縄文キャンプに参加する為、千佳ちゃんと二人で、はるばる秋田からやって来てくれたのだ
った。嬉しい心づかいである。
 チェックインを済ませ部屋に向かった。ちなみに、心配していた一人欠員のキャンセル料は、い
いからとの事だった。シーマセン。
 部屋では無事到着を祝い、またまたビールで乾杯し、わらび座ご自慢の温泉『ゆぽぽ』で汗を
流すことにする。
館内から道路をまたいだ連絡通路を通り、ゆぽぽに入る。まだ出来たばかりの、木材をふんだん
に使った木の香漂う広々とした施設だった。明日の結婚式の招待客らしい人達や、地元民らしい
人達もいて、結構な賑わいを見せていた。

 五時から明日のリハーサルをするということで、明日の披露宴の会場となる食堂へ集合する。
修学旅行の団体も受け入れているので、かなり広いスペースに、一段高いステージがあった。
他の人達のリハーサルは既に済んでいるらしく、初めて見る縄文太鼓のリハーサルを楽しみに
待っていたと言う風情の人達が、二十人程残っているのだった。

 実は、ひとつ気がかりなことがあった。何しろ本日は縄文太鼓の選りすぐりのメンバー五人である。
何の選りすぐりかと言えば、お祭り好きで大の飲んべぇと言う、ただ一点に置いてである。それも
楽器は何も考えず手当りしだい積み込んだものだし、もちろん、事前に練習などしてくる訳がない。
いったい、どんな曲をどんな楽器の担当で演奏するのか、まったく考えてもいなかったりするのだ。
 そんな不安を胸に秘めながら、持ってきた手持ちの楽器を運び込み、早速リハに取りかかる。ま
ずは適当に楽器を割り振り『ガモス』の練習。しょっぱな、俺の笛がトチる。動揺しているのだ。ヒロ
ユキの石のリズムが違う。考えてみたらこのパート、ヒロユキは初体験なのだった。ヒロユキ、例に
よってあの十万ドルの笑顔でごまかす。しかし、いくらやっても叩けない。やはり、不安は的中して
しまった。

 いつだか、縄文祭りの時にコージがまったく叩けなくなってしまった事があった。その時の事は、
今でも《コージ真っ白事件》として折々に語り継がれている訳だが、そうそう、ついでにもうひとつ
思い出した。《コーイチ、タン塩事件》と言うのがあった。
 それは十年も前のことだったろうか、市民会館での出番の前日、そのステージの上で練習を
やっていた。ところが、唯一人コーイチだけがやってこない。コーイチ抜きの練習が一時間程過ぎ
た頃、かなりの酩酊状態で彼はやって来た。早速、言い訳がてら持って来たと思われるタン塩を、
旨いから食えという。確かに旨い。そして彼を入れた練習になったのだが、これがまったく叩けない。
いくら教えても叩けない。ついには大の字になり、矢でも鉄砲でも持って来いと言う。
 あいにくとその日に限って武器関係の用意がなかったのと、全員がタン塩を食ってしまっていた
こともあり、その場は事無きを得たが、結局その日は練習にならなかった。まあ、あの頃は練習中
にでもしょっちゅうパターンが変わっていて、たとえシラフであったとしても憶えるのはかなり大変
だったのだが…。

 何の話しだっけ?そうそうヒロユキ。何しろ観客がいる。それもわらび座で音楽関係には滅法耳
の肥えた連中である。冷汗は脂汗へと変わっていった。さすがの十万ドルの笑顔も、大幅に値を
下げてしまっている。
 ひとりふたりと観客が席を立ち始めた。どんな心境でそうせざるを得なくなったのかは、察するに
もあまりある。最後には心優しい、あるいはかなりのサディストの、はたまた単に退ちそびてしまっ
た気の毒な四・五人が、所在なさげにその場に残っただけだった。
その曲の練習は諦め、問題の無い別の二曲を練習し早々に切り上げた。後は明日の本番で、ヒロ
ユキに神の御加護のあらん事を祈るのみである。

 さあ、飯、飯。立ち直りの早さは天下一品。今しがたの悪夢の事などすっかり忘れ去り、意気揚々
と食事処『ばっきゃ』に向かうのだった。『ばっきゃ』とは、秋田弁でふきのとうのことだそうである。
ゆぽぽとは棟続きになっており、やはり全て木造の広々とした処だった。またまた例によってビール
と地酒の冷酒。しかし、よく飲むよなぁ…。軽く日本そばで腹ごしらえをする。
 八時からは、わらび座の音楽集団『アンサンブル虹』とのセッションがある。先程の事がありかなり
気が重い。まぁ、酒も入ったことだし何とかなんべぇ。縄文太鼓とは、大体がそんなもんなのである。

 そのセッションの会場は、『アンサンブル虹』の練習場となっている所で、巨大なわらび座劇場の
地下にあった。雪のちらつく中、座員に手伝ってもらいながら楽器を運び込む。そこには既に、顔な
じみの座員達と虹のメンバー達が待っていて、我々を拍手で迎えてくれた。

 軽く自己紹介のあと酒で乾杯し、まずは挨拶がてら、彼らの曲『縄文』の演奏だ。昨日森田で見て
来た例の太鼓がふたつ、リズムを刻み始める。やはり手慣れたプロの演奏だ。途中ユーモラスな掛
け合いがあったりする。徐々に他の楽器が加わってきた。オカリナが叙情的なメロディを奏でる。
フィリピンのムックリの様な楽器、アフリカのコギリ、シンセサイザー、ケーナやドラムス迄入ってくる。
 それはそれですごい演奏で、さすがだなぁと思わせる、が、ちょっとテンコモリ過ぎるようにも思える。
まあ基本的な考え方と出発点が全く違うからしょうがないが、これが『縄文』だと言われると、俺達の
考えている縄文のイメージとは、かなり違っている様な気がした。やはりわらび座は、あくまでも舞台
の上でのショーなのだろうか?

じゃあ俺達の縄文太鼓は一体何なんだろう?

 俺達はまず楽器の素材にこだわってきた。原則的に自分達が手作り出来る、自然の素材を使った
楽器。この笛はあそこの竹藪から取って来た竹でこの木琴はあの裏山にあった楢の木で、この石は
あそこの川原で、と言うような事。それが縄文太鼓にとっては、とても大切な事に思える。
 ある人から言われたことがあった。縄文太鼓の音は、いつか聞いたことがあるような懐かしい音が
する、と。それはかなり嬉しいことだ。実を言えばそこここに不満は一杯あるのだが。例えば太鼓の
皮。一番大きな太鼓はまずしょうがないとしても、牛ではなく本当は鹿とか熊等の皮を使いたい。そ
うすれば今の和太鼓に似た音から離れ、もっと縄文らしい音楽を創れるような気がするのだ。
 何しろ俺達の縄文太鼓は、自然にある素材が出す音そのものに触発されながら曲を作って来た
様なものだから、縄文につながる素材へのこだわりがなくなったら、何の価値もなくなると思う。それ
は俺にしてみれば、音楽の技術的な上手下手以前の問題のように思える。
 言って見れば縄文太鼓は民族音楽。それもうんと土着的な泥臭さを感じさせるような。そんなもの
を漠然と目指してきたのではないだろうか。まぁ、も少し上手くなれれば言うことはないのだが…。

 『アンサンブル虹』のすごい演奏に圧倒されながらも、反面、そんなことを考え、俺達の縄文太鼓も
まんざらではないなと、少し自信を取り戻しているボクだった。いい度胸してるぜ、まったく。
 さあ、俺達の番だ。よおし、こうなりゃやぶれかぶれ、さっきしくじった『ガモス』をやるっきゃない。
 トントトト、ンドットドン… おうおう、今度はまずまず上出来じゃない。酒が入りゃあこっちのもんよ、
ざまぁみろってんだ、へっへっ。
 次はいよいよセッションである。実はセッションと言うのは非常に難しい。特に我々の様な音楽的に
未熟な者にとっては。俺等が向こうに合わせるのは、その中でもまた特に至難の業だ。だからこっち
に主導権をくれればと思っていたが、早々にシンセサイザーがその幕を切って落としてしまった。
 これはもう、テキトーに合わせるしかない。向こうは次々とそれぞれの楽器で入ってくる。それもま
るでリハーサルでもしていたかのように、ごく自然に。圧倒されている。入れねぇよぉー。
 最後まで我々はお客様のまま、ひとりコーイチだけが、目をつむり、半ばやけくそぎみに太鼓を叩
いていたが、ほとんど取りつく島もないままエンディングへと向かって行った。でも全体としては一応
の盛り上がりを見せたらしく、拍手のなかでセッション(?)を終える。
 そして我々は、酒の匂いに誘われるまま、バッキャローなどとくだらない洒落を放ちながら、再び
『ばっきゃ』へと向って行くのだった。
 おっと、『ばっきゃ』ではなかった。有難いことに、リンちゃんとその旦那さん、いやまだ婚約者の
古崎くんが準備してくれた座敷に、お呼ばれしているのだった。

 『ばっきゃ』の隣その座敷には、心尽くしの膳が並び、二人のお祝いに駆けつけた三十名程の
『関係者』達が、なごやかな顔で座っていた。
 古崎くんとリンちゃんの挨拶、そして乾杯。それからみんなの自己紹介。それぞれの両親の挨
拶には万感迫るものがあり、暖かい拍手が鳴り止まなかった。我々は、リンちゃんとの出会い、
孤軍奮闘していたその姿、そしてその熱い想いに一人、またひとりと輪が広がって行ったあの時
の感動を、感謝の言葉とともに紹介した。他に金沢からの若い三人組がいて、やはりリンちゃんを
通じ、いい体験をさせてもらったとのことだった。

 しらけている。個人主義だ。今の若者達を言うときによく引き合いに出される言葉である。全体的
に言えば確かにそうかも知れない。そんな風潮の中にあっては、このわらび座などはとっくに死滅
してしまっていても、決しておかしくはない。しかし、ここで生き生きと活動している若い座員はもと
より、その活動に触発され、素直に感動を口にする全国各地の若者達は、確かに存在する。そう、
世の中まだまだ捨てたものではないのだ。
 わらび座は、俺達のように趣味でやっているのとは違う。確かに趣味が高じてと言うのもあるかも
知れないが、そこに生活という重い部分が加わっているのだ。どう見ても、俺等一般人が考えるよう
な物質的に恵まれた平穏な生活とは、かけ離れているように思える。それでも、周りの人達が触発
される程の熱い情熱を持てると言うのは、人と人とのふれあいの中で共有してきた感動の大きさに
比例しているのだろう。
 捨てられない物をたくさん背負込んでしまっている俺などには、すでに望むべくもないが、一面で
はとても羨ましい人生ではある。これからもがんばっていって欲しいし、もし、また一緒にやる機会
があったら協力を惜しみたくないと思う。

 座はどんどん盛り上がってきている。まずは古崎くんの津軽三味線だ。いや正確に言えば、秋田
の梅若流というから秋田三味線なのか? うん、これは本物だ。次はリンちゃんの力強い振付の付
いたソーラン節。そして藤森さんという年配の、笛の名手の独奏だ。篠笛や尺八、中国の笛もすごい!
何でも若い頃中国にいらしたそうで、なんつっても本場仕込みである。竹の甘皮の発するノイズが、
中国四千年の時を感じさせる。終わってから早速その笛をいじらせてもらう。いやぁ感激、感激!
 しかし、なんてすごい人達ばかりいるんだ、ここには。
 感激してるうち、この場はお開きとなり、この盛り上がった雰囲気のままさらに飲み直そうというこ
とで、再び隣の『ばっきゃ』に向かう。

 『ばっきゃ』は先程とは違って、だいぶ混み合って来ている。明日の結婚式の為に、全国各地から
駆けつけた人達のグループのようだ。やはりそれぞれにわらび座を体験し、その感動を分かち合っ
た人達に違いない。
 窓の外はいまだ雪がちらついており、必然的にメインディッシュは鍋物となる。カネオから預かった
縄文太鼓の金など、もう、とうに使い果たしてしまっているというのに、ほぼメニューの片っ端から注
文するという、豪勢な宴会の様相を呈してきた。どうもさっきの夕食以来、ヒロユキが店の女の子に
妙になついてしまっているのも、その一因であるような気がしないでもない。それはさて置き、まず
飲もう。昨日から数えて何回目の乾杯なのかは、人知れず観察を続ける日本野鳥の会の人達に
でも聞いて頂くことにして、我々は店中に聞こえる程元気な声を張り上げ、それぞれのグラスを飲
み干すのだった。

 コーイチはだいぶ廻ってきたらしく、冷酒の講釈などを始めた。競艇で大穴を当て、代々木公園で
仲間にそれを自慢する陽気なイラン人、と言ったところだ。ヨシカズは相変わらず冗談を連発しなが
ら鍋物をつつき、縄文には相応しくないその下っ腹に、さらに皮下脂肪をせっせと貯め込んでいる。
マサヒコも、こんだけ飲めば風邪もあきれてどっかへ行ってしまったらしく、他の四人よりはちょっと
おとなしくは見えるが、飲んでいる酒量はかなりな筈だ。ヒロユキの笑顔は十五万ドル位には回復
していて、時折通りかかる例の女の子に愛想したり、いつものでたらめ外来語も飛び出し始め、絶
好調に近い。俺はと言えば元々顔に出る体質なのだが、広い額と最近とみに寂しくなってきた頭頂
部は、ダウンライトの下、日本海の夕日のように真っ赤っかに燃え盛っているのだった。
勿論口は休むことを知らない。
 五人で良かった。ここにカネオやフミユキやコージやそれにイサオやカズヒコ迄入っていたら、一体
どうなっていたことか。考えただけで、身の毛もよだつ…。

 時刻は十時をとうに廻っており、我々以外のグループもかなり盛り上がってきている。どうやら酒も
飲み飽き、宴会芸のお時間となったようである。金沢チームの寺の倅がソーラン節を踊り始めた。ま
た一方ではみんな輪になって踊っている。岐阜県の郡上八幡の盆踊りだそうだ。一緒に踊ろうと座
員に手を引かれ輪の中に加わるが、あいにくと踊りはからっきし駄目な訳で、手と足が絡みつき身
動きができなくなって途中リタイアとなった。
 歌を唄い出したグループがいる。こっちなら何とかなる。みんな立ち上がり肩を組み、『乾杯』やら
『若者たち』等、普段なら赤面してしまうようなもっともらしい歌を、立て続けに五、六曲合唱した。
 最後には、『ばっきゃ』に居合わせた全員が肩を組み揺れながら唄うという、何ともわらび座にふ
さわしい感動的なフィナーレが待っていた。


四月十日 

 あんだけ飲んだのにそれほど酒が残っていないのは、わらび座流宴会がその効果を発揮したもの
と思われる。恐る恐るカーテンをめくってみると、夕べの天気が嘘のように晴れ上がり、朝もやの中
で肥大した太陽が目に眩しい。
 食堂で朝食にしては豪華な食事を済ませ部屋で一服していると、我々の接待係の悦朗が、ペンシ
ルストライプの渋いスーツ姿でやってきた。わらび座の施設を案内してくれるという。
 日陰にはまだ夕べの雪が残っていて、朝の空気は十分にその冷たさを保っている。五人の怪しい
男どもを引き連れた悦朗はまず図書館に向かった。
 各地の郷土芸能を堀起こし、わらび座流の演出を加え全国いや全世界に紹介するという仕事を、
メインの活動とするわらび座のデータバンクらしく、その蔵書は質・量ともにすごいものだった。別室
には、やはり郷土芸能を納めたビデオテープやカセットテープが整然と保管されていた。もし時間が
許すのなら片っ端から見てみたい。いつか別の機会に(いつかというのはいつも実現のためしがな
いが…)その目的のためだけに来てみたいと思う。
 もしかしたらその時には、絶えて久しい郷土芸能の一つとして記録保存された、『山形・縄文太鼓』
というインデックスも発見出来るに違いない。

 図書館を後にし団員たちの住居スペースを案内してもらう。小学低学年ぐらいの子供が二人、はし
ゃぎながら向こうからやって来た。すれ違いざま手を上げると「ようっ、エッツロー」えっ、いきなり呼び
捨てかよ。しかし悦郎は別に怒るでもなくにこやかに「おはよう」と返すのだった。
 わらび座で育ったわらび座二世達は、わらびっこと呼ばれ座員みんなの子供として育てられている。
悦郎も座員の両親を持ちここで育った生っ粋のわらびっこである。両親が公演などで長期に留守に
することが多い子供たちのために、託児所や幼稚園等もその住居スペースの中に置かれてあるし、
高校に入学すると敷地内にある独身寮に入居し、多感な青春時代を過ごすのだという。それは一種
のコロニーのような形態が整えられている訳で、だからここにいる子供たち(悦郎も含め)は、みんな
が幼なじみであり兄弟なのだ。

 朝の散歩を終えゲストハウスに戻り、それぞれにスーツに着替え念入りに化粧を…そこまはやらな
いにしても馬子にも衣装の体裁を整え、合同結婚式の会場となるわらび座劇場へと向かった。
 顔見知りの座員達や夕べ一緒に歌った連中達とそれぞれに挨拶を交わしながら会場に入る。ビデ
オカメラを持って来ていたので撮影に都合のいい場所に陣取る。

 普段はわらび座の公演の場所として使われているその劇場は、ホームグランドと呼ぶにふさわしい
立派なホールだった。全国に散っていた座員や、我々のような招待を受けた客達で会場はほぼ満席
である。結婚式と言うよりは、これから始まるミュージカルの開演をワクワクしながら待っている、そん
な雰囲気に近い。
 しかし司会者が開会の言葉を述べ、予定通りに結婚式が始まった。三組の新郎新婦が満場の拍手
の中入場してくる。勿論その中には、まばゆいばかりのウエディングドレスに身を包んだリンちゃんや、
タキシード姿も凛々しいのぼる君がいる。ステージ場にある主賓席にそれぞれが着くと、わらび座の創
設者でもある原由子代表が、媒酌人としての挨拶である。何しろ三組もの結婚式なのだから、普通の
ように事細かにそれぞれの略歴を披露するワケではないが、まるで六人全部の母親でもあるかのよう
な、穏やかで、暖かい語り口の挨拶だった。
 略歴紹介は、スライドを使った趣向を凝らしたものだった。それぞれに紹介者がいて、面白可笑しく
新郎新婦の生い立ちや人となり、出会いのエピソード等を紹介していく。
・・・・・・・・・。

 ここまで書いたところで作者の容態が急変し、絶筆…。合掌。


編集後記

 たぶん前日までの長旅の疲れと二日酔いで、晴れの披露宴であるにも関わらずふとどきにも寝てしまった
か、ただでさえ脆弱な記憶回路が故障し、その後の行程を再現することが不可能になったモノと思われる。
 また、作者の名誉のためにひとこと申し添えるならば、この紀行文は事実に基づいた正確なドキュメンタリ
ーとして起稿したものであり、あやふやな記憶に基づいた文章を書くことは、作者のドキュメンタリー作家とし
てのプライドが許さなかったものと推測される。

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