ハ・タ・チ


 30年前。その日は行政が主催する成人式の日。オレは、着飾った同年の若者で賑わう公会堂のすぐ側にある、行きつけの小さなスナック『マミー』のカウンターにひとり居た。「おめでとう」そう言って、東京でのおふくろのような存在のママが、琥珀色の液体で半分ほど満たされたブランデーグラスを、そっと差し出してくれた。

 そんな寂しい成人の日と違って、ここ古代の丘は、沢山の人たちで賑わう20回目を迎えた縄文まつりの日。人間と違って縄文まつりは、おおっぴらにタバコが吸えたり酒が飲めたりする大きな変化はないけど、20年という歴史の積み重ねを、改めて振り返る良い機会ではある。当時の正確な資料や記録などは元来ズボラなオレの所に残っているワケはないので、頼りない記憶を辿りながら振り返ってみるとしよう。

 佐藤正四郎先生が中心となった長者屋敷遺跡発掘のあと、竪穴式住居が復元され82年に縄文むらが開村。翌年に縄文太鼓制作委員会が発足し、84年9月に完成発表会が行われた。そしてさらに翌年、縄文太鼓の演奏を中心とした、縄文への理解をより深めてもらうイベントにしようと、85年9月8日縄文むらに於いて、第1回目の縄文まつりは開催された。
 縄文にふさわしく火を囲んだ夜のイベントにしようと、開始は午後4時くらいだったろうか。三々五々、観客が細い農道を歩きながら集まって来た。広場にはムシロかなんかが敷いてあったと思う。初代縄文むら村長、蒲生正男さんの先導でお祈りをし、祭りは始まった。神保バッチャ手作りの小芋の煮っ転がし“カンコロ芋”(ちなみに“カンコロ芋”は、バッチャが元気だった第7回まで縄文まつりの名物として来場者に振る舞われ喜ばれた)と白酒が振る舞われる。白装束の巫女(誰だったんだろう?)が、古代火起こしで点けられた火を松明にかざし、広場の中央に積まれた薪に点火した。演奏が進み夕暮れの中、再び巫女が登場し導火線に火を点けた。針金の芯に灯油の染みた布を巻き付けた仕掛け花火が、『縄文まつり』の文字を赤々と浮かび上がらせた。
 あの時はいくつの持ち曲があったんだろう?たぶんバラエ・ガモス・ドンコ・ゴエラの4曲位?あ、ヨピテなんて言う曲もあったか…。曲目が少ないと言うことは必然的に一曲の演奏時間が長くなる。メインのドンコなんかは、30分位やってたんじゃないかな? ともあれ、お酒の適度に入った会場は大盛り上がりで、予定外のアンコールなんかも頂いたから、ほとんどつぶれてしまった声を振り絞って、またゴエラをやったような…。

 翌年、2回目の縄文まつりは雨にたたられ、体育館でのお祭りとなった。この頃、縄文太鼓が出ると必ずと言って良い程雨降りとなり、長いこと雨太鼓の称号に甘んじる。梨の木むらが整備された3回目はそこを会場とした。この年から地元のお年寄りのご協力を仰ぎ、昔の仕事を実演して頂く。ちょっと前までは縄文からの文化が営々と伝わって来ていた、と言う考えの具現だった。4回目からはアクセスの良い太陽の広場に会場を移し、さらに土器作りや野焼き、そして色々なゲームなんかを盛り込みながら徐々に充実していった。
 4回目の時、ドンズキ(新築の時の地固め)をやったのだが、次の年、ただドンズキだけじゃ面白くないからと、それで餅をついてみた。そしたら、ドンズキを知らない子供たちが、あれは餅をつくための大掛かりな仕掛けなんだ、と、勘違いしてしまうというお叱りを受け、次の年からは中止になったり…。
 93年に土偶広場が完成したのを期に、第9回目からはここが主会場となった。10回目の縄文まつりからは、地元小学校の協力を得、児童たちによる“縄文太鼓少年少女隊”を結成し演奏を披露。より味わいの深い賑やかな祭りとなる。
 満々と水を湛えた堤を見下ろし、巨大な土偶たちに見守られながらの祭りは、余所に誇れる、まさに縄文にふさわしい祭りとなり現在に至っている。

 縄文まつりは、手作りの祭りだ。始めた当初から予算はほとんどない。だからすべてに於いて金の掛からないよう、祭りスタッフが知恵と労力を出し合って運営されてきている。行政からの補助やスポンサーからの資金提供、または地元からの寄付なんかで潤沢な予算があれば、もっともっと豪華な祭りが出来るのだろうが、逆にそうではなかったからこそ、この縄文まつりの良さが形作られて来たような気もする。
 「なんか人の温もりを感じる、あたたかいお祭りだね」との嬉しい感想を来場者から頂戴することが多い。たぶんそれは、そんなところから来ているのかも知れない。
 そうは言っても、緊縮財政及びスタッフ不足はそろそろ限界に来ているわけで、年会費一口5百円の縄文太鼓愛護会の会員や、祭りスタッフを広く募ったりしているのが現状でもある。

 ハタチを、すでに30年も前に迎えてしまったオレの余命はあと幾ばくかも知れないが、縄文太鼓や縄文まつりに寿命は無いと信じたい。たぶん、人間の文明がより高度になるにつれ、人々の心は逆に古き時代を求めていくのではないだろうか。その為にも、今日のこのあたたかなお祭りが、50年、百年、いやもっと遠い未来まで、営々と受け継がれて行くことを心から祈りたい。

 縄文まつり、成人おめでとう!

2004 OCT 縄文太鼓 代表 金子 俊郎

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