創立記念日は、現在地に移転した日を記念して9月5日です。(創立は明治12年1月8日)
田沢小学校125年の歴史で、最も長かったのは森俊悦先生の講演にあった「久伝学校」時代で、約57年間である。現在の学校に移転してから、旧校舎で37年・現新校舎で6年の計43年よりも長い歴史を持っている。 |
創立125周年記念式典が行われました。
校長の挨拶 |
代表児童挨拶(6年) |
森俊悦先生の特別講演会 |
久伝学校時代 |
昭和初めの家庭生活 | |
いろりのそばで 母ちゃんは針仕事 父ちゃんは わら仕事 ぬだばって 勉強してる子 チナゴとりしている子 そして相手にされず 一人で遊んでいる弟 いろりのなべは ばんげの準備 |
|
久伝学校 | |
私の入った70年前の学校は久伝にあった。 その前には別のところにあって ゴーグラや作業所などを利用していたそうです。 田沢沼の近くに運動場(うんどうば)があり中央に 桜の木が生えていた。この運動場が出来る 前は沼の水がなくなったところを利用したと いわれています。 |
|
学校全景 | |
橋信一さん宅 校庭入口に桜の古木(今も残っている) 道路との境に杉のかきね 東南端に柳の木 そのせまい校地校舎に生徒は百二・三十人人 |
|
通 学 | |
小菅は今の学校前を通り、新田、西山は 田沢沼のわきを通って登校した。 冬になれば親たちが先頭になり、 子供達はケットで身をくるみ、ダルマさん のようになって歩いて来た。 学校に着くとぬれた着物をかわかし、昼の ベントウを食べると又すぐ帰ったりした。 |
|
学 用 品 | |
入学時の勉強道具は、 石板、石筆、そろばん、筆とすずり。 そろばん→計算尺→アナログ計算機→ デジタル計算機→パソコンと計算機器は進歩したが そろばん計算を基本にした暗算では今も パソコンより速い。 |
|
学校生活 | |
子供をおんぶしながらの勉強 教室の中で子守りをしている子供 黒板は黒、机は二人組 生きていくのに、勉強は必ずしも必要では なかった。 卒業すれば若い衆、女中等の奉公が待っていた。 終戦後は集団就職となる。 |
|
あ そ び | |
農業などの手伝いがない限り夕方まで 遊んでくらした。 ざっこへめ、パッタ、ねっきぶち コマ廻し、夏は水あび 新、西、小菅は最上川 田沢は大堤 昭和十年頃からは兵隊ゴッコが主流 |
|
観 光 | |
田沢沼は釣り堀、貸しボートのお客さんで 連日にぎわいました。 久伝の橋栄蔵さんのお父さんが始めた 大石田町唯一の観光事業です。 現在又新しい形の観光地として田沢沼は 生まれ変わろうとしております。 |
|
学校全景(bQと同じ画像です) | |
橋信一さん宅 校庭入口に桜の古木(今も残っている) 道路との境に杉のかきね 東南端に柳の木 そのせまい校地校舎に生徒は百二・三十人人 |
|
軍事体制 | |
昭和十年過ぎから日本の社会全体が 軍事体制→戦時体制となり、 学校全体の様子がすっかり変わりました。 文化系の学生さん達は、在学中にも 招集令状が来ると戦地に向かいました。 国民全体が戦争のために一丸となって 頑張りました。 |
|
終 戦 | |
昭和二十年、東京、広島、長崎をはじめ 各地で空爆をうけ、多くのダメージをうけ ました。− 大石田でも空襲を受ける − それで八月に降参し戦争から解放され ました。それから日本は新しい平和な国 として頑張り、今では世界でも認められる 経済大国になりました。 |
|
平和の里 田沢 | |
田沢の里にホタルが帰ってきました。 この地が又平和な自然にもどった印です。 その中で豊かな新しい教材と校舎で 勉強出来ることを感謝しながら 頑張りましょう。 平和の里 田沢の未来を期待して!! |
製作・著作:森俊悦氏 |
社団法人示現会 会員 示現会山形支部副支部長 山形県美展 委嘱 |