第2回アフガニスタン支援報告 
2002.7.4〜 

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国境越え 2002.7.17

300Mの国境緩衝地帯を渡り終え、イランに入った。
言葉はほとんど通じないこのイラン・・・実は大変好きになっている。イスラームの世界、それはかかわれば かかわるほど、のめりこむものなのかもしれない。
厳格にイスラームの教えを守るこのイランという国は、穏健派、ハタミ大統領によって、大変平和に運営されている。反米思想は強いが、それをことさら強調せず、自分たちがその生きるよりどころとするイスラム教をきちんと守っているのだ。正直、顔は怖い人もいるが、このイランでいやな目に遭ったことはない、みな親切でやさしい。一時期日本に多くのイラン人が来ていたこともあるので、日本語を話す人もいるし、みんな日本人が好きだ。
 
今日場末の食堂に入った。
奥に一人の兵士が座って、サンドイッチを食べていた。
僕も同じ物を頼んで食べていたが、彼のほうが早く食べ終わった。
窮屈な、地元の人しか行かない食堂だから、僕は彼が出るだろうと思って食べかけて椅子をたった。すると彼は、穏やかに、座っていなさいという振りをする。ん?と思いつつ、サンドイッチを食べ終わると、彼はようやく立ち上がった。彼は僕が食べ終わるのを、ゆっくりとまっていたのだ。
それはとても礼儀正しい行為だった。
すれ違いざま、彼は僕の肩にそっと触れて、何かいった。
きっと「ごゆっくり」だろう・・・。
礼節と義理を重んじる人。特別彼だけがそうではない。
入ったお店、すれ違いざまに話し掛けてくる人々・・・
すべての人がやさしい。

 マシャッドという町まで4時間、クルマを走らせ、たどり着いた。明日はテヘランに飛んで、そのまま成田へ向かうから、今日は最後の夜だ。
マシャッドはイラン最大の聖地である。
ハラメ・モッタル広場には、イランの聖人、エマーム・レザーの眠るモスクがある。
そこは異教徒でも入れてくれるので、夜に行ってみた。
すでに10時を過ぎているのに、老若男女、ものすごい人・・・
イラン各地から、巡礼に来た人々だ。
広い大理石の広場にはじゅうたんが敷き詰められ、人々は思い思いの姿でお祈りをしている。
 
ものすごい祈りの力・・・。
「信じる」という力のすごさを知った思いだった。
イスラームは、いつのまにかよくないイメージがつけられているが、それはおきな間違いである。
人間の欲をおさえ、その行き過ぎを広く戒めるという意味においては、非常に重要な側面を持っている。
もともと人間のもろさを知り尽くした人々によって広められたこの宗教は、その意味で、逆に人間的な気がし た。この、モスクの中では、どんなに金持ちでも、どんなに貧乏でも、まったく差別なく扱われるのだ。
みな同じようにひざまづき、頭をたれて神に祈っている。

子どもが騒いだ。
広いモスクの広場だ、騒ぎたいだろう。
しかし多くの大人が、笑いながら、彼を戒めた。
両親よりも早く、である。
このモスクにいる人は、みな、その子にとっての両親になっていたのである。

あしの悪いおばあさんが杖で階段を降りてきた。
さっと数人の人が、介助に回った。
そのおばあさんの息子よりも早く、である。
子のモスクにいる人は、みな、そのおばあさんにとって息子になっていたのである。

その余りの自然な姿に、ものすごい感動を覚えた。
イスラームは決して過激な宗教ではない。
人の分を知らせ、相互扶助をとくのだ。
きわめて平和で、共存の宗教とまた改めて知ったのだった。

イランが、実に好きになってきた。僕にとって、実に50ヶ国目の記念すべき国。

これで、第2回のアフガニスタン支援日誌は終わります。
次回は、来年2月の予定です。



出国

 ヘラートで、最後の仕事は保健省の役人に会うことだった。
 そして、今後のグルランでの活動の承認と、どうしたらうまく診療所が回っていけるかの詳細を煮詰めることだった。今日は国境線越えの日なので、余り時間はなかったが、それでもファリッド先生との話は有効であった。なぜならば、グルランにおけるこれまでの疾患の統計がわかったからである。
一番多いのはやはりかぜ、上気道炎であるが、意外に多いのはやはり結核だったことであろう。
グルランの土地がやせているのか、あるいは旱魃の影響を受けやすいのか、とにかく食べる物が豊かではないことが、こういった疾患の統計に表れている。ということはFood for Action、つまり食べられるようにすることが、この問題の解決の根本にある・・・、それがグルランなのである。雨が降らない、それは一気に病気を蔓延させることにつながっていく、恐ろしいまでの「連鎖」だ。
旱魃→栄養失調→結核→労働力の低下→収穫量の低下→栄養失調→病気の蔓延・・・・
延々たる連鎖だ・・・。
これをたちきるには、医療支援だけではだめだ。農業支援が必要になる。しかしこんな広大な地域に水を行き渡らせられるようなプランが存在するだろうか・・・。
 
 そう、この大地に雨がかつてのように降るようになるには、地球の温暖化を阻止することが大切なのである。
ということは、このグルランの問題には、わが日本の生活が、実は少なからず関係しているということではないか。贅沢三昧で出しつづけた二酸化炭素・・・。それは回りまわって、グルランの雨を少なくさせているのだ。
ということは、日本で、私たちがその生活を少しでも見直すことで、グルランに雨がほんの少しかもしれないけれど戻るかもしれない。
これこそ、日本にいてもグルランにかかわれる方法なのかもしれない。
そう思いながら、その疾患統計を見ていた。
課題は大きいが、身近なところにやっるものがあるように思えた。



タキ校はよみがえっている

 タキ校へ行ってきた。
ヘラート郊外のこの学校は、痛みが激しく、物品もそろわない不遇の学校だった。
しかし、今回のアフガニスタン支援事業のかいあって、机と椅子が入り、かなり改善していた。
早速校長先生にインタビュー。
「いや、助かりました。タリバーン政権が崩壊して、女性が学校に戻れるようになって、一気に生徒数が増えた。それはいいことなんだが、とにかく足りないものがたくさんでてきてしまったんですよ。机やいす、窓ガラス、惹いては校舎の建物も足りない。それが今回のみなさんの支援で、すべてのクラスに机といすが入って、みんな腰も痛くなくなり、勉強に集中できるようになりました。ありがとう、ありがとう・・・」
日ごろは笑顔をほとんど見せない校長が笑っている。
 
 で、次で出てきたものは、
「そこでなんですが、あともう1つ校しゃを立ててもらえませんでしょうかねえ・・・」でましたね、更なる要求。現状では一クラスにおおよそ50人を超える生徒が詰め込まれている。困った学校側は、テントの提供受けて、その中に机といすを置き、勉強の場を作っている。しかし、この日中40度を軽く超える気候の中では、とても屋外のテントで勉強はできないだろう。
案の定、そこは使われていなかった。
後者を一棟建てるには、小さいものだと約100万円程度の資金がかかる。これを安いというか高いというかは難しいところだが、いずれにしても、教育は開放されてきているがゆえに、資材が圧倒的に不足している。
 
学校を去るとき、一人の少年がやってきた。
小学校4年生くらいだろうか、必死に何かを訴えている。ムスタファは訳した。
「あの、教科書が買えないんだけど、何とかならないですか?」
うっとつまってしまった。
けなげな少年。日本ではおもちゃだなんだと贅沢三昧。でもここでは、自分の教科
書を確保するために、勇気を出して外国人に近づいてくる少年がいる。




心のクリニック

 イリスはスイス人の内科医である。
 もうアフガニスタンに3年もすんで、IAMというカブールに拠点のあるNGOの医者として働いている。
 IAMは、ヘラートにも事務所を置いて、なんとメンタルクリニックを運営しているのだ。
 イリスはダリ語がかなりしゃべれる。
 それでも通訳者を置いて、イリスは精神科の患者さんを診ていた。
 一人の男性患者さんが入ってきた。
 「オー、コニチワ・・・ワタシ、アジーズトイイマス、ドゾヨロシク!!」
 日本語になおせばこんな感じかというような英語をぺらぺらしゃべってくる。
 明らかに「おかしい人」だ。
 
 イリスはにこにこしている。常連の分裂病のな患者さんのだという。
 アジーズさんは、イランに出稼ぎに行っているときに、片言の英語を覚えたというが、そのときに分裂病を発病 したのだという。誰も知り合いのいないイランではひどい目に遭いながら、なんとかヘラートにもどってきた。 そして家族の支援とともに、このクリニックを受診し、薬を飲み始めて落ち着いたようだ。
 こんなににこにこしている分裂病の人も珍しいきがした。
 それほど、なんか「余裕のある分裂病の人」にみえるのだ。

 ここでは、家族の支援が非常に手厚い。
 たった10分の外来であっても、必ず家族が付き添う。それも、いとことか、はとことか、遠い関係の親戚だっ たりもする。家族、親族関係が濃い民族なのだ。そして心の病気といっても、決して偏見で見ることはなく、ち ゃんと付き添うし、支援する。
 そんなところが「朗らかな表情の分裂病の人」にしてくれているのではないだろうか。
 病気はどこでも同じメカニズムだったりするだろうけど、そのよくなり方は、ところによって違うことを、また 痛感させられた。アフガニスタンにはもともと、霊媒師として、ムーラ、シェイハスという存在がある。これら は、心の悩みや問題を扱うシャーマンである。しかし、かれらでも手におえないケースもあるわけで、わずかで はあるが、精神医療を必要としている人たちがいるのだ。
 
 イリスはいう。
 「やはり圧倒的に”うつ”が多いですね。社会の変化についていけない人、むごい目に遭って回復していない  人、将来に対する漠然とした不安、貧しさなどが重なり合って、人々はうつ状態に陥っているようですね。で  も、その中にも明らかにトラウマ、PTSDを感じさせる所見の人々がおり、この長い内戦の中で、心も疲弊し ているようです。精神医療は、必要だと思いますね。」
 桑山はそして思った。
 かなり身体の症状を訴えている人が多いが、それは多くがストレスから来るもののようである。だから、頭痛、 めまい、動き、息切れ、生理不順のような身体症状をよくよみとり、適切なケアシステムを作っていかなければ ならないだろう。
 現状ではイリスも、IAMも薬の投与だけで治療が終わっている。
 しかし周知のとおり、薬は治療のひとつであってすべてではないのだ。
 集団療法、個人カウンセリング、絵画療法、作業療法、デイケアなどを併用する必要性があると痛感した。
 今後の課題である。

 さて、今回のアフガニスタン支援活動も、明日、ヘラートを出発して終了する。
 また陸路で4時間走って国境線へ・・・歩いて国境を渡りイランへ。そしてマシャッドに泊って18日の昼過ぎ には成田についている予定である。15日間の活動日数を持ちながら、アフガニスタン国内にいられたのはたっ た8日間だけという厳しさである。
 ビザの取得の困難さ、入国ルートの険しさが、この国に近づく人々を遠ざけていることを感じる。
 ビザがもっと容易に取得され、空路で入れるルートがでてくると、もっと有効な時間を過ごせると思えてならな い。
 明日は、越境の状況をお伝えしたい。


小さな田舎町 2002.7.12

 グルラン州は、もうすぐそこがタジキスタン国境という、アフガニスタンの小さな田舎町である。
 ヘラートを朝の6時に出た私たちは、途中のラバッツ・サンギの町までは比較的快適なドライビングであったが、サンギを越えるとものすごい悪路に変わった。安全上の理由から2台で行くようにしているが、僕が乗ったカローラは上下にバンバンゆれながら、そこから3時間も走った。すると広がってきたその風景…筆舌尽くしがたい、美しさ。まさにそこはあの中国映画の巨匠、チャン・イーモウ監督の「初恋の来た道」の風景。なだらかな丘陵地に広がる麦畑・・樹木が少ないので遠くまで見渡せるこの風景は、めったに見ることのできない不思議な風景であった。
 
 グルラン郡の首都、グルランは人口3000人ほどの小さな町である。そこはまさにスターウォーズ、「エピソード1」の、アナキンのすむ町とそっくりだった。あれはこういった町をモデルにしていたんだろう。
 
 さて、グルランの診療所は見た限りではかなり小さめであるが、医者は3人いる。みんなパシュトゥーン人である。要するにタリバーンを生み出した民族だ。でも全然危険なかんじはない。みなやさしいひげの男たちである。
 診察の現場を除くと、すでに患者さんがたくさん来ている。後ろでのぞいていると、いろいろと教えてくれといってくる。一つ一つ対応してみると、まず圧倒的に栄養失調が多い。要するに食べ物がなくて病気になっているというケースだ。これはひどい…ソマリアの難民キャンプで見たような、子どもの顔にハエがたかる風景、脱力の余りそれを払おうともできない母親…。すぐ近くに「死」のある世界である。
 診察を通じて思ったのは、まず病気の診療にあわせて、食料の確保を進めることだろう。
 
 それはかなりの規模になるが、取り組むのであれば、それをやるべきである。
 電気や水のない環境で、毛布1枚にくるまって寝た夜・・、しみじみと寂しさが襲ってきた。
 自分は帰る国があるからいい・・しかし彼女たちは、いったいこの診察を受けた後、どこへ帰れというのか…それこそ野ざらしの中での「夜」であろう。
 やさしいアフガンの人々…
 しかし取り巻く現実は厳しく、このまま冬になると、また何人もがばたばたと死んでいく世界になるかもしれない。
 支援は多くのものを、そして迅速さも、同時に求められている。

くわやま



国境へ  2002.7.9

 マッシャッドを朝の7時に出た。
 心地よい風が、吹いている朝だった。これが日中は40度近くにまで上がるとは思えないくらい涼しい。この寒暖の 差の激しさが、砂漠気候に近いところにいる証しだろう。
 クルマはどんどんスピードを上げていく。
 およそ120キロで走っているので、300キロでも約3時間でついてしまう。
 砂漠に近いとは言えども、緑が多い。イランの経済力なのか、灌漑が進んでいるように思えた。
 どんどん東へ進むと、やがてアフガニスタン国境を形作る山脈が見えてきた。
 いよいよである。
 
 ドガルーンはまさに国境の街。街といっても民家はほとんどない。乱雑に二つの国のゲートが林立しているだけの殺風景なところである。
 しかし現状では、ここが唯一の西からアフガニスタンに入るルートなので、道の脇には多くのコンテナを積んだトラックや、クルマを乗せたキャリーがひしめいてい
る。彼らは通関待ちの商売人たちだ。
 
 出国のスタンプをイランサイドでもらい、国境の緩衝地帯を歩いて渡る。
 歩いて国境を渡ったのは何回目だろうか。
 旧ユーゴスラビア、イラク、そしてこのアフガニスタン、3回目くらいだろう。クルマの行き来がない両国 では、これも仕方ない越境である。
 アフガニスタンサイドには、NICCOのヘラート事務所、則岡さんが立って待っていた。
 通訳のムスタファも・・・
 再開の抱擁をしたが、やっぱりムスタは太っている。まだ22歳だ、がんばれムスタ。


 さて、入国スタンプをもらい、アフガニスタン国境に入ると、風景は一変する。
 まずまったく道路が舗装されていない。そして緑が消えうせ、赤茶けた砂となだらかな山のみになっていく。
 なんとも殺風景だ。
 気候は、あのイランの道沿いとさして変わらないはずなので、やはり灌漑の有無なのだろう。
 アフガニスタンは茶色く煙っていた。
 ヘラートまでの120kmを実に4時間余りかけて走る。途中パンクした。
 暑さのためもあるが、とにかく道が悪い。
 そして、あのマスラック難民キャンプの横に差し掛かった。
 かなりの人がこのキャンプを出て、自らの土地へ戻っていると聞く。
 確かに殺風景である。
 今年少し雨が降って、耕作できるようになったかもしれないといううわさが流れ、かなりの農民が土地へ帰ったと聞 く。
 
 しかしトルクメニスタンとの国境線あたりはまだまだ治安が悪く、戻ってくる人もたくさん入ると聞く。
 それでも、2月には11万人いた人口も今では2万人程度に減っていると聞く。
 いいことと歓迎したいところである。

 懐かしいヘラートについた。
 今回は安全確保のためのルートつくり、ゴルランにおける結核治療の支援、タキの学校修復事業の確認などが任務で ある。

 2月のときは厳冬期でものすごく寒かったが、この7月はこちらでも夏にあたり、かなり暑い。
 ばてないようにいきたい。
 




桑山、50カ国目の国はイランだ!  2002.7.7

 
7月4日の深夜、テヘラン空港に、イラン航空で降り立ったのだが、毎日が驚きの日々・・。
 まず飛行機が着陸するその寸前に、トイレに立つイラン人。びっくりしてみていたけど、CAさんは、困った顔をするだけ・・すごいなあ。そして、着地したその瞬間、携帯で話し始めるやつがいるぞ!一体誰だ!と思ってみてみると、何と飛行機のパーサー(ヒゲ男)氏であった。もうかなりの乗客が立ち上がっているぞ。ほんとかよ、まだ時速200キロは出ていると思うよ・・・
 中国人じゃないんだから、ブリッジに接岸するまで待っててよね・・・。
 でも無駄な嘆だった。

 深夜のテヘランは静かで近代的な様相だったけど、翌朝、起きてみると、そこは喧騒の中の大都会だった。
 アフガニスタンのビザを取りに行ったり、結核治療の情報集めにテヘラン大学医学部に行ったりして街を回る中、驚くべきことに気づいた。それはものすごく「信号が少ない」ということである。もちろんクルマはあふれるほどいるのに、信号はほとんど見かけない。大きな交差点にはさすがにあるけれど、中規模以下の交差点にはいっさい信号というものがないのだ。
 
 ではどうやってみんな交差点をうっちゃるのかって?
 それは、譲ったり押し出したりして、微妙なさじ加減でなんだかんだと通り過ぎていくのである。
 
 そんな説明ではわからないって?
 いや桑山自身もなぜ詰まったり事故が起きたりしないのか不思議だけど、とにかく、なんだかんだと左折(右側通行なので、左折は困難なはず)もしちゃうし、大通りでのUターンも難なくやってしまうのだ。
 そりゃあ、「ぶつかる!!」と思わず叫びそうになることもしばしばですが、決してぶつからない・・。
 
 始めは不思議だったが、これは「実は譲り合っている」ことに気づいた。
 いったん自分が譲ると、次は自分が譲られる・・という現象が起きていることに気づいた。だから押しは強そうだけど、無理はしない。必ずまず譲っておいて、そして次に自分が譲られた少しのすき間に突っ込んでいくわけだ。
 これは、うまい・・・
 桑山はこれでかなりイラン人が好きになったのだった。

さて、町で出会う人、病院や大使館で出会う人・・かなり日本語しゃべります。1日の業務を終えて、少し時間があったので、そこだけは行きたかった「考古学博物館」に行きました。しかしもう時間は5時30分過ぎ・・閉館まで15分しかない。
 受付の女性に英語で話しかけようとしたその瞬間、
 「モウ、シマリマスヨ〜」
 一体誰が話しているの?という感じの日本語。そのイラン人の女性が話しかけてきたのだ。
 「エ?、日本語・・いや、でも少しでいいから見せてください」
 「ソウデスカ、デハ6マイね」
 「は?」
 「ダカラ6マイ」
 これは6万リアルという意味でした。
 そうか・・と思って財布からお金を取りだそうとしたら、奥にいた男性が、
 「イイヨイイヨ、マケルよ、オニイチャン」
 「は?」
 「ダカラデスネ、モウアトスコシシカ、ジカンナイノデ、タダデイイデス」
 「どうもありがとうございます」
 「ドウ、イタマシテ」
 ・・「シ」がぬけた・・・

 この博物館の帰り、おじいちゃんが運転するタクシーを捕まえた。そしたら、
 「オー、ワカイヒト、タクシーノルネ〜」
 またまた変な日本語の出現だ。ご高齢でいらっしゃるが、東京にいたというおじいちゃんドライバーである。
 「イラン人、ドウ?コワイ?」
 「いえ〜みんな優しいですよ」
 「ソウカイ、デモ変なイラン人イルヨ」
 そらたくさんいるわ・・と思いつつ、おじちゃんはしゃべりまくる。
 「アサ、イチバンネ?」
 「は?」
 「ダカラ、アサ、イチバンネ」
 桑山はてっきり「朝の一番機で飛ぶのか?」と聞かれたのかと思って、
 「いえ、マシャッドには、明日の夕方です」
 と答えたが、結局これは、
 「(ビールは)アサ(ヒが)イチバン(うまい)ネ―
 の意味だった・・・。わかるかいな、そんなん・・・。
 次いで出てきたのが、
 「コロンビア、センソウ、ガンバッテルネ」
 これは、「コロンビアは戦争で頑張っているね」という意味だと思い、
 「いや、コロンビアは戦争していないですよ」
 と答えたら、通じない。変だなあと思ってよく聞いてみると、
 「コロンビア(の女性は)、(東京で)センソウ(→セックス)ガンバッテ(いっぱいやってい)ルネ―
 という意味だった。
 結局このおやじは日本に行って、イランで禁止されている2つのもの、酒と女似ついて、話しかけてきたのだ。
 う〜ン、彼は日本を天国と思っているのだろうか・・・。

運転は荒い。
 その度に、
 「コンチクショ(入り込まれたとき)」とか「どーぞ、どーぞ(譲るとき)―」
「ガンバッテネ(抜いていったクルマに向かって)―」を日本語で連発するが、なぜかその間に「ハクサイ!」「ハクサイ」!も連発するのだ。これは「白菜」のことだろうか・・いや違うな。何かを間違えて覚えているんだ・・。
 でもどう頑張っても「ハクサイ」に近い異義語が出てこなかった。
 そうするうちにホテルについて、別れを告げたのだった。

 イランは、遠いようで、意外と日本との接点が大きい。
 イラン人は概して優しく温和である。
 明日、各国大使館や国連機関を回って準備を整え、夜には、マシャッドに入る。そしていよいよ月曜日には、陸路で国境を越える。
 国境線上は歩いての越境だ。

 まだまだレポートは続きます。

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