Subject:「エリート教育への偏見」 Name:東京都 PRADAさん Date: 2001.6.1 地方の人材を考える時、国のエリ−ト教育を無視して進めても無意味であろう。 「澤田の論」では日本の官僚制と東大の関係を歴史学的に解析している。しかし国内完結型の考察でしかないと思える。エリ−ト教育への偏見披露でしかないだろう。 フランスにおけるエリ−ト教育機関グランドゼコールは知識のみによる選抜で政・官・財界の指導者を輩出している。 日産のカルロス・ゴ−ン氏もグランドゼコール出身である。”ジャパニーズ・ドリーム”を言う前にこうした常識を把握されているのか疑問に思う。 日産がフランスのエリ−トの力で復活し、多くの日本人勤労者が救済されたのはまぎれもない事実である。 グランドゼコールも貧困地区からの優先入学を試行した。米国ハ−バ−ド大も人種・地域の偏りを無くす事に腐心している。日本においてもエリ−ト教育を確立し、養成機関の入学者選抜に地方ワクを設ける事が重要だと思う。 東大を否定しても何も始まらない。地方の人材育成に利用するのも一法であろう。立身出世の松下幸之助氏も松下政経塾なる養成機関を設立している。 中央官僚と地方自治体職員の養成システムでも、地方自治体組織が官僚養成に利用されている、官僚は県庁の部長職等をトレ−ニングの一環として経験する一方で、自治体職員には高嶺の花である。官僚は海外留学を含む多様なキャリアメニュ−がある一方で自治体職員はどうであろう? 受ける研修システムが職務能力に大きうな影響を与えるのは自明であり、根拠に乏しい反論は哀しい。 地方の人材枯渇の原因に、高等教育への大きな誤解があると思う。 地方の私立大学で自治体補助を受ける大学は多く、理事等に地方自治体関係者も多い。大学を誘致・設立して利権や雇用を創造する事が一般化し、肝腎の人材育成は犠牲にされた。 都市と地方の資産格差で、地方からの大都市大学入学が相対的に高額となった事も事実である。高等教育機関誘致ではなく、奨学金の充実など人材投資が筋であったと思う。 誘致した私大、設立した公立大が財政赤字の要因となる日も近いであろう。 多様な人材養成は大都市で行われている。 地方も多様であるべきで、知育も含めて多様な人材養成を考える時、自前ではなく都市を利用するべきで、自前主義は疑問である。利用する方法論も大切であろう。 都市部では甲子園出場を指向して若者が進んで、地方高校へ進学している。地方も都市を大いに利用する時期ではないか? |
Subject:「澤田の論〜もっと前向きな人材論を〜」 Date: 2001.6.1 エリートに対して私が否定をしたとのPRADAさんからの反論がありましたが、私の説明不足でしょうか? エリート教育を否定している事を書いていません。立花氏の論文を私がうまく紹介していないのかもしれませんが、エリートの国際標準に達する教育力が欠如している事を憂慮する主旨で立花氏が書かれているのであって、むしろ人材の養成に関して、古い時代での養成にしか対応しきれていない事を東大ですら行っているのではという事を指摘しているのです。今回PRADAさんはカルロス・ゴーン氏を例証して、エリートを否定するべきではないとの事を言われていますが、つまり日本人には日産を救う人材がいなかった事をどのように考えるべきなのか、という事を議論するようにしたらどうか? との事をサイト運営者としてお願いしているのです。 東大云々を言いたいのではなく、地方の人材育成のインフラとして高校での教育力が落ちている事を書かれているのだと思っています。ただ、その後の力うどんさんとのやり取りで東大への進学率の低下がそのバロメーターであるとの記述があったので、それならば学力試験によるエリートの最高峰と見なされる東大が、今の時代要請に応える人材を育成できているのかを、検証する議論があってもいいのではと考えて、あのように書いたのですが、私の論旨が理解されていないように思います。『貧しい家庭の子でも東大に入って立身出世』が社会の平等へのインフラと書かれているのですが、ご存知のように東大への進学がupper classからの師弟にかなり偏りつつあります。教育の対する経済負担が肥大化していて、以前ほど社会の広い層から多様な人材予備軍を集める機能は低下してきているという事も一つの事実です。社会がかなり階層化の固定化が進んでしまった事も、この国の活力を落とす遠因との考えもあり、平等へのインフラという側面のプラス面だけでなく、学歴による社会階層の固定化というマイナス面も少しは考慮すべきではないでしょうか? 職住近接が地方では為されているから、通勤時間が少なく可処分時間が大きいのです。その事と行政サービスや文化施設へのアクセスの話がごっちゃになっているように思います。行政へのアクセスがし易いのは、小さな自治体規模でやっているからで、過疎的な地域に住む住民が、例えば私達が住んでいる庄内地域が一つの自治体になった時に、今まで以上に行政が遠くなるように危惧をするのでは? それが誤解である事を合併推進の立場の人達が説明をすればいいのでしょう。私は合併反対の立場から様々書いているのではありません。力うどんさんにしても、合併を推進する時に住民がどうして合併が必要なのかについて理解するような説明をする事が求められている事を言われているのだと思います。行政依存からの脱却を目指すべきとの立場では、PRADAさんと意見を異にしているのではないのです。 何故地方が都市部よりも依存度が高いのでしょう、そこに国策的な誘導があった事が歴史的に無かったのでしょうか? 最初から優秀な人材が地方において力を発揮できうる国を目指してやってきたのであれば、現状での依存性の高さを全面的に地方が反省する事が求められるのでしょうが、人材を都市部に集める事を長くやってきた結果、すぐには対しきれない事態があり得るのであれば、そうした経緯を少しは勘案する余地があるのではと書いているのです。亡国論と書かれる論旨ではないと思いますが。 少し意地悪な事を書かせてもらえば、PRADAさんは地方から東京に出てこられて、何故地元に帰らないのでしょう? 多分、地元よりも東京がご自身の能力を発揮できると考えられたからではないかと想像します。高い能力を発揮しうる環境が都市部に集約する事を通して様々な形で都市部への人材の集中を強化する事が続いてきたのです。最初からそうした格差が今ほどついていたのではないのです。その辺の歴史的な考慮を少しはしないと、競争力がないのは地方が怠慢なのだと言わんばかりの事には少々反発を感じるのも止むを得ない事のように思います。段階的にそれぞれの地域毎の自立を確立する政策提示を考えていただきたいとの事を書いているのでした。その一つとして、人材育成のツールの一つとして高校のあり方を考察する事は有益な考察ですが、『東大神話』の事での筋道ずれた方向のやり取りがあったので修正をお願いしたのです。 言葉には感情が込められます。たびたび指摘させていただいているのは、相手への配慮に欠ける表現が目立つ事です。力うどんさんへあなたの屈折した価値観との表現があったり、広域行政の懸念がまさか町内代表自治体消滅ではないでしょうね? と書かれたり、非常に品性を疑わせる表現だとはご自身で感じられないのですか? サイトを運営する立場から、そうした表現を敢えて使われる事は如何な物か? と書いているのです。最低限度の礼儀を口にする前に、お考え下さい。 |
Subject:「「革命と改革」及び「匿名さんへ」」 Name:東京都 PRADAさん Date: 2001.6.1 鶴岡力うどんさんへ 「幸福」を前面に出す論理は素晴らしいですね。しかし、行政に関するご考察が生活環境へと議論をすり変えているように思います。 受益として見ると、納税と比較して公的受益が都市部に薄く、地方で厚いのは自明です。地方自治体の行政サービス。国が行う公共事業。民間が行う経済活動。で、地方では民活部門までも行政が補填している現状を無視されていませんか? 官と民を分離しない議論は噛み合いません。 ---------------------------------------------------------- 市町村合併を推進して住民が幸福になる場 合も当然あるしその反対もある訳で、、、、、 ---------------------------------------------------------- 再三、お願いしていますが”その反対”を具体的にご呈示お願いします。抽象的な反論では議論が進みません。 ---------------------------------------------------------- 最後に、たとえ市町村合併が推進されたとしても、中央官僚や県の官僚達が落下傘の如く地方に天下ってくる時代ではないでしょう。中央で活躍されている方々こそ、失業の危機に見舞われると認識された方がよろしいかと思います。 ---------------------------------------------------------- そうなれば良いと思います。 でも、現実は逆ではないでしょうか。公務員定数抑制政策下ですよね? 何が起こってるかご存知ですか? 官僚機構の利権は温存し、下級公務員の補充を止めているのが現状です。役所の中はパート採用や派遣業者からの外注職員が多いですが、管理職ポストは温存されています。貴方は官僚組織の強靱さ巧妙さを認知しない主観で議論されているように感じます。成熟社会での改革とは、ある意味で弱者切り捨てと同値であり、強い者は身を守り、弱者が排除されています。弱者が正当な権利を回復する事は「革命」と表現されるのが一般的ですよね。 官僚退職後に大学教授、作家、弁護士、企業役員、副知事、知事、市長、議員は良く見られます。地方自治体職員はどうでしょう? 潜在能力ではなく、日常業務が官僚の下僕化している自治体業務から来る弊害を直視して議論を進めるべきです。 北海道経済は公共事業で下支えされている現実をご存知でしょうか? 人口減少、高齢化が進む地方で雇用が維持されて、大都市で雇用が萎む論理は面白いので、是非、解説をお願いします。 国富の減少は貧富の差で表現されるのが資本主義社会では常識であり、全く逆のご見解の根拠も興味深いですからお教え下されば幸いです。 ---------------------------------------------------------- 前回、私が懸念することとして述べた「住民の幸福」ですが、PRADAさんが前の論でお使いなられた、「政治が幸福を誘導する時代は過ぎ去り、日本政治の方向も「結果平等」から「機会平等」を指向する昨今」という表現が難しすぎてよく判りません。 ---------------------------------------------------------- ですが、政治の役割に「所得の再分配」がありますよね。 日本において累進課税率が緩い方向で改正されいます。年金支給年齢の引き上げもセットで行われています。これらは機会平等の表現でしょう。バラマキによる幸福の誘導ではなく、幸福追求の機会均等にシフトしています。 規制緩和とは市場原理の導入であり、弱肉強食論です。貴方の文脈で「住民の幸福」とは”幸福追求の機会均等”より”結果平等的幸福”を指されているように感じます。 私見として累進率低下政策は間違いと感じています。 最後に ---------------------------------------------------------- 自治体は住民に何をしてくれるのか、何をすべきなのかの議論が必要な気がします。 ---------------------------------------------------------- 基本は最大多数の最大幸福、少数意見の尊重でしょう。 国民総体で全ては受益者負担であり、行政は分配するだけで何もしてくれません。日本の行政は総体として国民の負債を増やす政策を推進していますから、分配よりたちが悪いのでは? 鶴岡市でも自治体のおかげで高い水道料となっています。 自治体を食い物にする少数の排除が第一歩ではないでしょうか? 効率良く補助金や交付金を運用する前提が最優先と思いますが、現状は不効率を温存して、住民への配分を減少させる方策では有りませんか? 匿名さんへ 辛辣な文章ですね。 貴方の様な方が言論の自由を破壊したり暴力に走るの でしょう。 一つ反論しますが、過疎地〜都心で医業を行いましたが、競争は都心程きつく、患者さんも権利意識が強いので貴方のご批判は全く不合理です。地方ほどご指摘の医師も存在できる余地があるように思います。都会の病院程、医療過誤が報道されますが、地方ほど力関係で隠匿されやすい土壌があるとも言えます。 貴方に反論する課程が自慢になりそうなので控えますが、本当の自分は貴方のご主張も含まれる可能性も否定しません。また、澤田先生のように引用できる程の読書も全くないので、受け売りというより常識の範疇で議論しています。 相手の文脈、意味を正しく把握した上での批判は意義はあると思いますが、貴方の文脈は反論以前の脅しや抑圧ですね。訂正を求めても無駄でしょうから、その言葉を受け止める事にしましょう。 ---------------------------------------------------------- 1)貴方のマスコミ論に靖国問題は踏み絵と書いてありますが、どう言う理由で踏み絵なのか貴方の言葉で、しかも判り易く答えて下 さい。出来れば歴史的背景を混ぜて頂けるとより理解し易いと思います。 ---------------------------------------------------------- 人格否定の文章で”しかも判り易く”と要求する貴方は私からすると宇宙人です。 私自身は靖国参拝は無知から来る消極的肯定派です。靖国問題は政治家の国家観披露として定性的指標ではないでしょうか? 逆にマスコミにおいて靖国を問う意義は失われていない社会環境を認知する事が重要でしょう。連立与党の公明党も靖国参拝否定派であり、何割もの国民も反対する事象であり、マスコミが問うのも自然であり、マスコミの態度は批判対象ではないでしょう。 ---------------------------------------------------------- 2)東大に関する論の中で、アメリカでは東大も○大も関係ないと書いてありますが、家柄や世間体を気にして来た日本文化の中で、あなたの理論が通用する根拠を具体的に 判り易く書いて下さい。 ---------------------------------------------------------- 質問が良く分かりません。 東京選出の衆議院議員であった新井氏は在日韓国人でしたが東大→大蔵省→代議士となりました。理論ではなく現実や事例を言っています。日本文化と家柄ですが、プロ野球の王選手は国民的ヒーローでは有りませんか? 上記、二点はかなり判り易い具体的事例で、敢えて私が述べる必要もないような気がします。 東大という言葉は鶴岡力うどんさんが言い出したので、もう止めたいのですが、最近は慶大の首相も散見されます。東大と違い、慶大等は小中を付属校として持ち、大学入学者と内進者は人種が違う如くの差があります。その意味で東大っていうのは国民的に受容しやすいモノではないでしょうか? |
Subject:「人材論について」 Name:山形県 鶴岡力うどんさん Date: 2001.6.2 私とPRADAさんのやりとりで、このサイトの運営者である澤田さんが少し心を痛め、何度も議論の修正を求めたり、匿名希望さんを含めこのサイトをご覧の多くの方々が、最近不愉快に思ったりつまらなさを感じたとすれば、新参者の私にも責任がありますので、お詫びします。 ちょっと戸惑ってしまったのは、サイトが更新される時のタイムラグというのでしょうか、どなたかの論を拝見してから、自らの論を展開すればいいのでしょうが、どうも発言のタイミングが同時に行なわれているようで、反論とかお尋ねのあったことに対する答えを返そうにも、また新しい論が展開されているため、どうしてもムキになったり、言葉尻だけを捉えてみたり、あるいは揚げ足取りに終始してみたりで、澤田さんもPRADAさんも、以前と勝手が違ってきたことに戸惑っている印象があります。 これからは、ちょっと遅らせて色々な論の展開を見てから投稿しようと思います。今後とも宜しくお願いします。 さてそうは言っても、6月1日付で更新されたページでは、澤田さんからまた新しい問い掛けがありましたので、そのことについて自らの考えを述べてみ たいと思います。 まず日産自動車の再建ですが、確かにゴーン氏の手腕によるところは大きいと思いますが、でもそれだからといって、PRADAさん曰くの「日本に人材がいないから」というのはあまりに短絡な思考だと思います。今も昔も、日本には企業の再建に腕を振るってきた人は多く、今回スポットライトが当ったのが、「日産だっただけ」とか「ゴーン氏だけ」ということであり、テレビのドキュメンタリー番組や週刊誌のグラビアには出てこないけど、企業再建に腕を振るっている日本人経営者は多くいますよ。それ以前に、同じ車メーカーのトヨタが日本人経営者の手により最高益を出した事実をどう見ておられるのか。「日本人、そんなに捨てたもんじゃないですよ」と、楽観主義の私は発言してしまうのです。 次に、澤田さんからお尋ねのあった地方における高校教育の学力低下や、PRADAさんがご懸念の地方の人材枯渇論だけど、これとてそんなに深刻な事態なのでしょうか? 道路とか空港とかよりも急を要するインフラだとおっしゃっていますが、その前の論にあった「中央による搾取」だとか「妄想的な亡国論」だとか「教育のために単身赴任を余儀なくされている勤労者への暴論」だとか、私は人材論についてそんなに難しく考えたことはないし、「何を大袈裟な言い方して」との感想を持たざるをえないのであります。 私の子供二人は、今、地元では進学校といわれる高校に入っていますが、最近「やれ東大に何人入ったとか京都には? 東北には?」と気にする親や先生は少数で、だからといって圧倒的多数の親がそんな調子だから高校の学力低下が心配だとか、将来を担う人材確保が心配だと言う人も少ないですよ。また、「あの人は〇〇大学卒だからとか〇〇高校を優秀な成績で卒業したエリートで」なんてセリフ、最近は結婚式での仲人の挨拶にも出てきませんよ。 どうも私は、最近固定化されてきたという階層の中では、「はぐれ者」の層にいるのかなぁ。 だから、エリート論を議論するのであれば私は身を引きますが、地方における人材育成論であれば、後日一言語りたいと思います。 |
Subject:「前向きな?人材論」 Name:東京都 PRADAさん Date: 2001.6.3 「澤田の論」で私の人材論が後ろ向きとの指摘があるが、私の主張として 1.エリート教育の確立と地方枠の設立 2.大学誘致ではなく奨学金制度等の人材への直接投資 です。 現在でも自治医大に対し各県が一億円以上を投資しています。一人に年500万円の奨学金なら20人以上に投資できます。 資産格差から地方から都市への進学のハードルは高くなってはいないでしょうか? 地方の活性化とは即ち定住圏能力の確立でしょう。私は高校レベルまでの教育を自宅通学で維持できる環境と考えます。 今では県庁所在地の高校入学に下宿高校生は希な存在では有りません。原因として町レベルでの旧制中学等での進学実績の低下があるのでは無いでしょうか? こういった考察が後ろ向きでしょうか? 広域行政議論に関して 今ある役場等から首長と議会、政策立案職員が消える事が広域行政であり、行政窓口が消えるような論理の「澤田の論」は曲解では有りませんか? 訂正されるのが筋ではないでしょうか?。 自分なりに広域行政を考察すると、「少数の独立」が「多数の中での少数」になる不安でしょう。交通アクセス等では無いと思います。広域行政下での少数保護の担保を議論するべきであり、鶴岡力うどんさんや「澤田の論」の文脈は”行政サービス”をねじ曲げていないでしょうか? あと、そんなに周辺の自治体と合併するのに抵抗が住民にあるものなのでしょうか? 「さいたま」市長選挙でも土建屋が一生懸命で、地域住民の関心は低かったです。 「澤田の論」でも地方ほど政治が生活に占める割合が高いとのご指摘がありました。地域あたりの公共事業を保証して地域行政機構の人件費(首長、議員、高級公務員)を省く努力だけでも大分違うと思います。 合併しても役場は分庁や出張所として残りますよ。 鶴岡力うどんさんへ 地方の人材枯渇に楽観的で、ある意味でその通り、認識する必要は無いかもしれません。ミクロの考察は同感です。 ではマクロではどうでしょうか? 庄内地方の中心地で都市機能も有する鶴岡市の人口動態でも19歳人口が17歳人口の3分の2程度で、23歳でも回帰というより周辺からの流入程度と考察されます。さらに1歳人口は17歳の3分の2です。人口の流入と流出のバランスが取れていない地域の人材は枯渇して行くのが歴史の常ではないでしょうか? 人材の輸出超過地域で質が担保される根拠があればお教え下さい。 地域の中心都市でこの現状です。周辺自治体ではもっと深刻でしょう。 300自治体構想も定住圏維持の方策と思います。 地方の教員採用において、従来の数割程度しか新規採用がない現状で、地方の教育界は質を保ってスケール・ダウンできるのでしょうか? 地方で起こる事はいずれ中央でも起こります。質を保ってスケール・ダウンしようにもインフラの維持費にもっていかれてしまう一例が地方の水道料金でしょう。 過度的には県庁所在都市に一極集中が未来の日本像ではないでしょか。この事と人材の枯渇現象が連動しない方が不思議です。県庁所在都市というのは平均年収、地価が首都圏と遜色なく現在は推移していますが、100年後の地方はもっと悲惨かもしれません。 自動車業界で”トヨタ”を例にされていましたが、トヨタとホンダ以外は外資系の門下であり、国富が国外に還流する自体が想定されます。還流先も南北問題の北の地域ですよね。国民資産の数割を占める生命保険も外資の門下になっています。業界のトップが繁栄するのは一種の「貧富の差で吸収」ではないでしょうか? 二番手メーカーがない産業は衰退するのが常ですから、裾野の広い業界である事が必要と思います。 日本人経営者が再建に頑張っているのに何故、優良債権も不良化するここ10年なのでしょう? 日産も日本人社長で回復できた可能性はあっても大分低いのではないでしょうか? 根本 的に日本の人材育成を改革する方が近道では? 人材養成は一朝一夕にできるものでは有りません。 教育格差の是正が無いインフラ整備で地方が活性化するのでしょうか? 学歴の考察ですが、現在の日本の脱学歴社会は悪い意味で進み、学力低下として表現されていませんか? 競争のない分野は低下するのが常です。それが地方の方でより進行しているのが現状でしょう。 鶴岡力うどんさんの文脈は、結局は地方も含め学力低下容認論です。貿易・科学立国しかない日本では亡国論に思うのが大袈裟であれば、反省したいと思いますし、謝罪いたします。 |
Subject:「「地方論・幸福論・人生論・教育論」から撤退の弁
」 Name:山形県 鶴岡力うどんさん Date: 2001.6.3 私は、澤田さんも知ってのとおり、結構お調子者で風見鶏のようなところがあり、議論しても最後は相手に調子を合わせてしまったり、ヨイショしたりして、ディベートが不得手な性質だと自認しています。でも、PRADAさんとはどうも調子が合いませんね。揚げ足取りに終始したり、辛辣な言葉で非難し合うことは、このサイトの設置者である澤田さんの本意ではないと思い、厳しく慎みたいと思っているのですが、でもまた、浅学非才の身を省みず、無謀にも反論したくなるのです。どうしてこんな議論になってしまったのだろうかと、過去の発言を読み直してみたりしたのですが、レトリックの差とでも言うのでしょうか、PRADAさんの巧み表現技法によって、議論の本質が判ったようで実はよく判らない状況に追い込まれているのだと感じました。「言語明瞭、意味不明」といっては語弊があるかもしれませんが、どうも私にはそう感じてしまう。だから、PRADAさんがお持ちの「国家論」とか「憲法観」「幸福論」「教育論」「人生論」みたいなものが、よく判らなくなってしまうのです。逆に、自分の論も明確には伝えられていないから、ひとを批判する資格はないのですが。 だから、「議論をすり変えているように思う」と言われても、「そんなテクニック、私にはありませんよ」としか返答出来ません。それと、私や澤田さんは今住んでいる鶴岡市や周辺市町村の具体例を上げながら、考えを述べているつもりですが、PRADAさんが語る現状には具体的な市町村名は出てこないし、友達から聞いた話とか新聞を読んで知った話とか、一つの例があたかも日本のすべての地方都市の例のように語るのは、やはりそれもレトリックの一つだと感じるのです。例えば、 ------------------------------------------------------------------- 地方では民活部門までも行政が補填している現状を無視されていませんか? ------------------------------------------------------------------- 無視しようにも、その具体例がよく判りません。〇〇市の□□□事業のようになどと表現してくれれば理解も出来るのですが。 それと私は今、若輩者ながら鶴岡市の行革懇談会の末席にいるのですが、小泉さんの口癖を真似て、「民間で出来ることは民間に任せるべきだし、民間委託を単なる下請に出すような発想ではなく、市民の活力を引き出すとか、民間のノウハウを導入する方向に向かうべきだ」と主張しているし、鶴岡市においても、市職員労働組合と頻繁に対峙しながらも、いろんな分野で民間委託が実現してきています。 それとお尋ねのあった、「市町村合併で不幸になるケース」ですが、これは鶴岡市の例ではなく、周辺町村の関係者が心配していることなのですが、固定資産税を含めて税負担が増えるのではないか。水道料金下水道料金が増えるのではないかといった、合併上でのデメリット。教育面でみれば、小中学校の統廃合が進み通学の時間や金銭の負担が増えるのではないか。PRADAさんは憲法で教育を受ける権利を保証しているからいいのではないかとおっしゃいますが、子供達の世界では遠隔地からの登校というのはそれだけでハンディキャップがあると感じているんです。介護サービスでも、例えば町の段階で移動入浴を週三回まで認めていたものが、鶴岡市に併せると回数が減るか自己負担が増えるという心配も出てきます。こんな言い方も、生活環境の問題に議論を摩り替えていると言われるのでしょうか。もっと大局的に見ようとか、メリット、デメリットを勘案して少しでもプラスになればという見方もありますが、住民 が市町村合併の賛否について現実的な判断をしようとすれば、小さい自治体の住民はそのようなことが判断材料になるのです。 最後に、PRADAさんお使いの「下級公務員」「外注職員」「官僚の下僕化」という表現ですが、こんな表現をされている内は、あなたとはやはり対等な議論は出来ないと感じざるを得ません。残念ながら住む世界が違うのでしょうね。 だから、 ------------------------------------------------------------------- 国富の減少は貧富の差で表現されるのが資本主義社会では常識であり、全く逆のご見解の根拠も興味深いですからお教え下されば幸いです。 ------------------------------------------------------------------- こんな昔の全共闘のアジ演説みたいな論調で、(失礼な言い方と思われたらお詫びしますが)尋ねられても、私には答えを返すすべもなければ、今まで私はそんな資本主義社会云々なんて発言をしたこともなければ、考えたこともまるでありません。議論しようにも、見解を示そうにも、そんな知識は私にはありません。別に屈折している訳ではないんですよ。冒頭に申し上げたように、ますます相手の「国家観」「憲法観」「幸福論」「人生論」が見えなくなってきては、論争も議論もないでしょう。そんなことから、ひとまずPRADAさんとの今までのような議論からは身を引きます。ディベート的には全面撤退です。しかし、このサイトでまた新たな「論点」が生まれ、ヨシこれならということになった時に改めて投稿させていただきます。いろいろご教示ありがとうございました。 |
Subject:「国家のリストラ?」 Name:東京都 PRADAさん Date: 2001.6.5 HYさん、澤田先生へ 「澤田の論」へ強めの批判は認めるところです。でも、批判勢力がないと議論が始まらないと思い、悪役を買っていました。 文脈と論点を外さない反論が議論の大前提であり、修飾語句を問題視する澤田先生の思想が「匿名さん」の採用になった訳でしょうが、メール形式の議論であり、主宰者のご苦労を考慮すれば、裁量権行使は当然と感じています。 以前も政治献金の勧めみたいな暴論と、澤田の論で「単純な正義感」が同時upされていました。私としては暴論でも、論点を明瞭化して議論を勧めて欲しい立場でしたが、澤田先生後の諸氏の意見は集団リンチ的であったと記憶しています。 構造改革とは、国家のリストラであり、地方を含めた構造改革です。 雇用のsafty netと国家のリストラが同時進行できるのかが地方問題の本質ではないでしょうか? 民間企業もリストラの最中で雇用が収縮して います。 国家的視点で採算性、将来性を期待できる事象へ公共事業を集中させる姿勢が重要であり、地方論も含まれると思います。雇用の創造より失業保険制度を充実させて、産業構造変化に対応できる勤労者に再教育期間を与える方が重要でしょう。 ”公共事業で下支え”して将来、必要な人材は何処から誕生するのか疑問です。 いかなる事態でも環境保全の農業の保護育成は必要でしょう。地域を担う若者の教育も構造改革と別次元だと思います。一方で広域行政や補助金行政は同じ次元ではないでしょうか? 綺麗事の人材論より、世俗的な進学率質向上論の方が現実的だと思います。多様な人材に偏差値エリートも含まれるでしょう。司法改革が行われても弁護士もいない地域も多いのではないでしょうか? 人口比例以上の財源より、各界の人材が地方の活性化に必要と思いますが、人材の定着を”落下傘”と受け止める地方の雰囲気があるように思います。 先日の報道で国と地方の財政赤字総額は1000兆と有りました。いずれ国民資産を越える財政赤字となる可能性もあるように感じます。 ハイパーインフレも結果は同じでしょう。 改革に反対する政治家って「最後の晩餐」を貪る人たちとも言えるのではないでしょうか? 鶴岡力うどんさんへ ご専門もある事でしょうから、撤退表明より新規に提言でもされたら如何でしょうか? バス事業と補助金を言われておりましたネ。マイクロバスによる介護分野の進出で、補助金ではなく正当な介護料金を原資とした、路線維持はできないものでしょうか? 私の暴論より、貴方の正論の方が読み手も期待しています(皮肉では有りません)。 |
Subject:「澤田の論」 Date: 2001.6.5 奇麗事の人材論よりも、現実的な進学率向上論をとのPRADAさんからのご意見が出ています。他の方はどのようにお考えでしょうか? 今までの議論の流れを書いておくと、地方の行政システムを効率的な物にする為にも広域行政へ移行するべきとの論点提示がPRADAさんからありました。さらにその為には、地方の行政能力の脆弱さを克服するべきとのお考えが出されました。そこで、力うどんさんから、地方の行政能力不足とする根拠は? との問いかけがあって、一つの見方として、進学率がバロメーターと成り得るとのPRADAさんの進学率向上論が登場してきた、以上が凡その経過ではないかと思います。奇麗事との評価には捉えかたに異論がありますので、少し補足する事をお許しください。 地方の行政システムのリストラが必要とのPRADAさんの主張には賛同する事を前提に、ここで人材論を考えてみたいと私が拘るのは、システムを代えてもそこでの人的マンパワーが向上しないと、予想したほどの効率化や合理化は実現できないと考えているからです。その考え方はPRADAさんも何度か指摘されていたと思います。ところで、行政の中での人材という言葉はどのような能力を持った人の事を指しているのでしょうか? そこの捉えかたが論じている人ごとに大きく違ったまま論じ合う事は、議論が混乱するのではないでしょうか? こうこういった能力を持つ人材がこれから必要なのだが地方には少ないのでは? といった、具体的な人材の不足を論じ合う前提が、今までの議論では曖昧なように私には思えたのです。 そこで、東大という受験のヒエラルキーのトップがどのような時代要請から求められたのかという歴史的な背景への立花隆氏の考察を紹介(優秀な行政スタッフ育成する事を目指した)するとともに、これからの時代ではどのような能力を我々は求めているのか? という事へ、みなさんがどのような基準を考えているのかを様々考えてみる事をお勧めしたのでした。能力という言葉で表現されている内容が個々に別の物を想定しながらの議論で、前向きな議論になるのかなぁと思っています。教育のシステムをどのような能力を獲得させるか? という検証なしに弄っているのが今までの教育改革であった轍をこのサイトでの議論でもしてしまうように感じたので、あのように書いてきたのです。時代の変化に対応してどのような能力を持った人材が必要かは変わる訳で、東大を中心とした大学がその中で育成しようとしてきたのは、キャッチアップ型の能力つまり与えられた課題を、如何に効率的にこなすかという事に優れた人を生み出すには最適な物である事は散々指摘されてきました。今の日本が他の国に学ばなくてもいい国になったとは勿論考えていないのですが、現在及びこれからの時代要請は何が問題なのか? を見つけて、将来に備えての対応策を考える能力や、成熟した国の中で多くの人に問題解決を参画させる情報の説明能力など、大分違ってきているのではないかと私は考えています。これまで地方においては、財政的な基盤や企画その物が国に依存して、国の方針に如何に沿った管理が出来るかが、従来の行政手腕との側面が強かったと思います。しかし、これから広域的な行政を自立的にやっていく力が試されるのでしょうが、そこで必要な企画立案力は今まで地方にはあまり要求されてこなかったし、下手にいろいろやろうとすると、逆に立場的に苦しいような、ここでも行政組織のヒエラルキーの中で苦悶してきた事もあるやに感じています。 国や県からの締め付けを言い訳にして、独自性を持つ研鑚が十分だったか? そうした点はそれぞれの行政スタッフが自分自身の心に聞いてもらうしかありませんが、これからの時代では、徐々にではありますが、地域の発展のビィジョンを住民とともにどれだけ有効な物を企画できるのかが大きなポイントになってくるでしょう。そこでそうした企画力を身につける為の能力開発を大学が担当できるのか? という点がまず心配です。以前慶応藤沢キャンパスで、非常に個々の学生の問題の本質を見つける能力を引き出す講義とセミナーを見学した事があります。しかし日本の中で、実践的な能力を学生に身につけさせる講座を運営できる大学教授がどの程度居られるのか、その事も良く考えていかなければならないでしょう。今までの大学の評価も、そうしたこれからの求められる能力を如何に身につけられるかで大きく変わっていくことだと思います。 従来の基準で物事を考えて済む時代でなくなってきた事が、日本の構造改革を必要としている最大の要因なのですから、どのような基準で能力を捉えるのか?といった事を抜きにして現実的な事をというのは、目的を定めずただ頑張れと言う事になりはしないかと思います。若い人達も自分の将来には真剣です。何がこれからの時代に求められているのか、そこに自分の能力を発揮し、評価される部分があると考えればある意味止めろといわれても、そこに向かって努力していく物ではないかと思います。行政のスタッフになる事が安定という事だけでなく、能力的にも興味深い物だと広域行政に移行する事で出来るのかが、人材確保の本筋なのではと思います。 今の広域行政への移行論は財政的な危機回避の部分ばかりがクローズアップされすぎているのかもしれません。ますます行政という大事な部分への優秀な人間を確保し、時代を切り開く実践的な能力を高めてもらい、効率的な行政をしてもらいたいのに、時代の要請にかなうような前を向いた話が出てこないように思っています。公益の定義が法律的に為されていない事を以前書きましたが、これからの時代には公益は行政だけが担うのではなく、市民との連携で常に再構築していく物になっていくでしょう。そうした状況変化を理解し、市民とのコミュニケーションを上手に取る能力も格段に求められると思います。そうしたこれからの時代に求められる能力を身につける事が大学などの教育機関に充足しているとは私は考えていません。何処の大学への進学率がどうのという基準で考える時代ではないようにも考えています。 みなさんはこれからの行政スタッフに何を求めますか? 人材論はそこから始まるように思っています。 |
Subject:「交通政策と福祉政策」 Name:山形県 鶴岡力うどんさん Date: 2001.6.6 一度は「このサイトから出てゆくぞぉ」と言いながら、「まぁそう片意地張らないで」と肩をポンと叩かれたような、゛PRADAさんからの問い掛けに、少し気恥ずかしさを感じながらも、今の私の飯の食いだねである「バスと補助金」について論じさせていただきます。 まずは「私営公営を問わずバス事業の構造改革は既に始まっている」と言う事が出来ます。つまり、今までのバス事業というのは、「バス停を1mずらすだけでも国の許可が必要だ」みたいに規制だらけであったと同時に、規制と補助金により保護されていた面もあったのですが、昨年度から貸切バス事業の自由化が始まり、今年度秋からは乗合バスにおける自由化(規制の撤廃)が始まる訳です。併せて、路線維持のための補助金要項が大幅に変わり、今までは路線バスを経営して赤字を出した「会社」に対して補助金が出ていたものが、今度は「赤字路線」に補助金を出すという仕組みに変わりました。また補助金の主体が国から県と市町村に移行するのです。 これは何を意味するかといえば、バス会社は路線を敷く自由と廃止する自由が与えられたと同時に、「根本的に赤字路線は廃止すべきだし、補助金を貰って収支トントンなら存続してもいい」みたいな裁量権が与えられたのです。 しかし一方で、補助金の主体が市町村に変わることにより、一本一本の路線を残すか否かの判断がそこの住民、ひいては市町村の判断に委ねられた訳です。 市町村は、例えば福祉政策の一環としての路線存続を考えたり、バスが走らない土地には嫁も来なければ、交通弱者と呼ばれる高齢者も住めない町になり、一層過疎化に拍車を掛けることになることなどから、まちづくりや村おこしのための路線維持という判断に立ってくるのです。 こうなると、単に交通政策論の話ではなく、また議論のぶり返しになるかもしれませんが、地方論とか過疎過密論、あるいは地方交付税の分配論に繋がってゆくのです。 バス会社はけして補助金に甘えてきたわけではなく、また収支をトントンに出来るほどの補助金を戴いてた訳ではなく、経営の多角化などを図りそれらの収益をバス部門の赤字補填に費やしていた訳ですが、最近では関連事業そのものの収益を確保することが難しく、バス部門の赤字を補填する余裕など無くなってきた訳です。だから、グロスとしての経営ではなく、路線一本一本の収支を問うような経営に変わるのです。勿論、すべてが赤字路線ではなく、都市間の高速バスなどの黒字路線については更なる増収増益を目指してゆくことになります。 さて、お尋ねのあった介護サービスにおける路線維持ですが、前述のように路線維持の判断が市町村に委ねられてきたので、福祉政策の一環としての路線維持はある程度確保されると思います。車椅子でも乗れる低床式のバスの購入には補助金も付いています。課題は、「搬送費用」として介護保険からの適用がまだ市町村によりバラ付きがあるのと、回数・頻度の差はあります。先進地では保険から九割の給付が受けられるところもあるようです。ただ、バスに限らずハイタク業にも適用なるし、デイケア施設や特養施設での自家用車送迎の問題もあるので、バス運行というよりはドライバー派遣みたいな形に変わる可能性があります。 あれこれ述べてきたのですが、もう一度広域行政化の議論に戻るのですが、バス路線の維持や福祉バスの運行などの、いわゆるきめ細かさが無くなるのではないかという心配や今でも交通弱者な人々が、きめ細かさに欠ける行政サービスの展開により、ますます弱者に追い込まれるのではないかという心配があるのです。私達は民間会社ですから採算性だけを考えて、走る自由も止める自由もあるのですが、自治体としてはそう簡単には割り切れない問題だと思うのです。よろしかったら、皆さんのお考えをお聞かせ下さい。 |
Subject:「行政能力」 |
Subject:「澤田の論〜人材論3〜」 Date: 2001.6.7 PRADAさん、正直言ってほっとしています。あのような事があって、このサイトから出て行かれてしまうのではと心配していましたが、精力的な論を提示したいただき有難うございます。 どのような行政サービスを今後地域ごとに選択していくのか? という事をそれぞれの地域ごとに負担と受益のバランスを考えながら、自ら決める事が出来るのでなければ、範囲が大きくなったメリットはあっても、デメリットもその分大きくなるだけのように私は考えています。広域行政サービスのあり方を考える事とそこで働く行政スタッフのあり方に智恵を絞る事とはコインの裏表だと思います。人材は育成する事が求められるでしょうし、民間から積極的に期限を決めて登用する事が必要になってくると思います。私達の地元の鶴岡では、農業への施策を現場に近づける試みなのでしょうか、農協のスタッフを農政課で採用したそうです。民間の企業であれば、最近では外部からその時に必要な人的パワーを導入する事で、今までと違った事業展開のスピードを確保する事は当たり前になってきました。行政の立場では、身分保障のあり方などが民間と少し違っていた事もあり、外部からの人材登用があまり活発ではなかったようですが、これからはその辺に大きな変化が起こってくる事と思います。 外部からの導入の仕組みが出来てくれば、今後の行政の課題とそこでの人材に対する地域毎の考えが戦略的な所と、内向きな所と企画力等で格差が生じてくるのだと思います。どのような人材が必要なのかは、一律では当然ありません。ですから、一般論としての人材論はさほどの意味を持たないかもしれませんが、個別自分の住む地元が今後どのような形で住みやすくなるべきか?とか、どのような産業を基盤にしていく事が望ましいとか、いろいろ考えてみると、そこにこうした人材が不足しているのではという具体的な人材論が出てくるように思います。その供給体制が地元で充足していると言う場合は、案外少ないように思います(その充足率に地域格差があり、その象徴が進学率と捉えれば、PRADAさんの理解と繋がるのでしょう)。出来れば地元に愛着を持つオリジナルなプレイヤーをより多く育成できる地域が望ましいとは思いますが、その事にこだわらずに、どっかからでも智恵を絞って連れてくるのも短期的には一つの選択でしょう。 いずれにしても、自分達の地域の将来像に対する構想は、その構想を作り実践していく人材をどのように求めるかと同義ではないかとの事を書いているのです。地域に自立が求められる時代状況になってきたのに、どのような地域にしていくべきかのビィジョンをそこに住む人間が真剣に考えないでは、どうにもならないのですから、いろいろ思いをめぐらせて見れば、その構想に如何に対応する人材が必要かは、切実な問題として浮かび上がってくる事でしょう。まず、どのような人材を必要とするか?その事を見通せる程の地域のあり方への考察があって、育成のあり方も見えてくるように思うのが、私の主張です。育成が間に合わなければ、スカウトする事でどんどん地域のあり方を魅力的な物にしていく事が現実の物になっていくと、人材は集まってくる相乗効果があるように思います。子供の教育という事は親にとっては大きな関心事ですから、地域の魅力に教育力が高い事を挙げる人は多いのだと思います。だから、PRADAさんが書かれているような方法論も当然有効な物だと思いますが、より直接的に広域行政への移行というシステムの転換時に、地域の将来像を人材論を通して考えてみる事はそれなりに意味のある事ではないかと考えています。 具体的な私が考えている事を例示すると、今鶴岡には慶応義塾大学の研究所が開設されたのですが、このインフラをより有益な物にしていく時に、その研究テーマを概要としてだけではなく、専門的に理解する行政スタッフがいたほうがいいと私は思います。地域との連携を考えるにしても、産業に如何に活かすかを産業政策として考えていくにしても、従来の物理系の専門知識だけでは十分な活用や連携の施策をリードし切れない可能性があるように思っています。すでにそうした事への対応策を取りつつあるのかもしれませんが、システムをより効率的に運用するためにも、変化に対応できる柔軟性を確保するためにも、最後は人の力が今より高まった時により良い地域が出来る事は間違いのない事なので、より積極的な対応が望ましいと考えています。 これは反論ではないのですが、明石さんは東大での教育が良くて、あのようなお仕事が出来る能力を身につけられたのでしょうか? 松尾氏のようなノンキャリア官僚の例は具体的には知らないのですが、官僚組織の内部論理で独特のキャリアパスを生み出している例のようにも感じます。個人の能力をどのように公平に測るのか? という事は非常に難しいテーマですから、一概にそうした基準がある事の功罪は決めれないのですが、実力があっても、そうしたキャリアパスを自分達で規定する事は、自分達の立場を既得権化する要素が強く、本当の対応力を伸ばす事の妨げになっている事も往々にしてあるのではないかと感じます。どこかに基準を設定する事なしの評価が成り立たないのですが、どうも求められる基準ではないように感じる次第です。 それにしても、PRADAさんは行政機構について詳しいですね。驚くべき知識量だと感心します。私は行政の仕組みについて素人なので、少し具体的な論拠に薄い考えでいろいろ書いていますが、PRADAさんの考察はかなり現場をご存知なのか、参考になる事が多いと思っています。まぁ、私は素人の立場でこうであってくれればという事をこれからも書いていこうと思っていますので、足らない点はいろいろご指摘ください。 |
Subject:「交通政策の再論」 |
Subject:「広域行政、逆転の発想」 |
Subject:「澤田の論〜問題山積&オフ会について〜」 Date: 2001.6.11 先週は本業の歯科医師会の所属委員会の集まりや、鶴岡における「エコマネー」の第1次運用の打ち合わせ等で結構忙しかった為に、『論』の原稿を書く時間が確保出来ませんでした。 そうこうしている内にも世間は慌しく動いていて、様々な問題が溢れています。 衝撃的な問題としては、大阪での小学校での児童8名が命を奪われた事件があり、様々な事を考えさせられました。学校の安全性という視点で見ると、また社会で暗黙の信頼性を寄せていた部分が、性善説での危機管理の危うさを暴露したとも言える事件で、今後学校と社会の連携を考える時に、よくよく考えないといけないのだと思いました。また小泉総理大臣が刑法の不備と表現していた精神障害と犯罪の責任負担能力の関係なども、今のままでこれは特殊な事件と蓋をする事ではすまないのでは? と思わざろう得ない気がしました。犯人にも人権がある事を認めるとしても、事件の被害者に誰でも成り得る不安感が満ちた社会のままで放置する事の社会的なコストをどのようにバランスしていくのか、等はこうした事件を契機に冷静に考えるべきだと思います。 私個人の考えでは、ああした凶悪な犯罪においては、責任能力は情状をあまり大きく捉えるべきではないように思います。犯した罪の大きさはそれなりに償うべきで、精神鑑定により当時の精神状態がどのようであったかをあまりに免罪符にする事は、社会の順法意識へのモラルハザードを産むように思えてなりません。もしも、犯罪に対する責任能力がないのであれば、社会の中でその他の権利を若干制限される事を甘受するべきなのではないかと考えます。最初から隔離するような事を望むべきではないでしょうが、重大な犯罪を犯しても、その罪を問えないという事がどうも納得がいかないように思います。被害者になったほうからすれば、堪った物ではないのではないでしょうか? 罪を認識できない人によって、大切なわが子を失ったご両親にとって、その罪を何も贖う事無く、ただ不運だったでは済まないでしょうし、社会全体の精神衛生上もこの種の問題が多発している事への対応策を考えないと、その事が新たな不幸を生み出す温床になっていく負の連鎖を生むように思います。そもそも、笑って人を冷静に殺せる人がそんなにいるのでしょうか? 人が人を殺すという事は、その時点ですでにある種の狂気を持っていると考えるべきなのではと思います。薬によって理性を失っていた事を情状の理由にし、薬に逃げる事をしないで生きている人間の罪を問う事に大きな矛盾があるのではないでしょうか。 さて、人材論としてPRADAさんや力うどんさんと幾分脱線気味ではありますが、いろいろ議論してきました。その中で、行政スタッフに限らず、地方に地方の将来像を各分野で今以上に企画立案出来る人材を確保しなければとの点では、ある程度一致しているにもかかわらず、少し認識の差がある事を私なりに考察してみると、行政サービスという物への捉えかたが、各々違っている所で議論しあっているのではないかという気がしてきました。 私自身という事ではなく、多くの住民の広域化への不安の事を書いてきましたが、例えば、地方の保険所が統括され、従来の保険所で行ってきた検診業務などは各自治体にその業務が降りてきました。これは、行政改革の地方分権の中での変化ですが、こうした行政サービスが広域化された時に、少々不便な事が生じるとは考えられないでしょうか?今までどおり、役所がサービス提供の場を各地域に配分するのであれば、今とサービスへのアクセスは変化しません。むしろ広域化によって効率化する事が出来るサービスは例えば通信技術の応用で、今よりは便利になる物も多いでしょうし、そうしたシステムを地域ごとに考案するスタッフ能力も、自治体規模を大きくする事で確保しやすくなるメリットを生み出せると考えます。しかし、対面的なサービスに関しては、効率化が出来難い物もあると思うので、そこをどのように克服していくのか? という点などについては、具体的な説明がこれからなのではないかと思っています。認識不足なのかもしれませんが、住民は意外とそうした生活感からのサービス不足を効率化の名のもとに生じるのではないかとの不安を感じているように思っています。そうした不安が的を得ない物なのか、どうかもあまり議論されないで進める事を少々危惧しています。交通サクセスの事を持ち出したのは、交通インフラが整備されている例えば東京ではそうしたサービスを受けようとする時に頻繁に行き来する電車などの利用で移動が出来ているように思っているのです。高齢者が多い地方では、今のところ車という移動手段が手に入る人はむしろ都会よりも利便性が高いという状況がありますが、一旦車が自由に使えない場合などは、公的なサービスに限らずあったかな時期以外は我慢をしてしまっていたりするケースもあるみたいです。地方は車が使える人の場合はあまり問題ないのかもしれませんが、そうでない場合は統合化によって距離が遠くなるサービスへのアクセスはかなり厳しい物も想定される気がしています。広域化と今進行している分権による変化を少し混同しているのかもしれませんが、そうした理解の元に不安をもたれている方は案外多いようです。そうした不安を適切な説明と、サービスの提供システムをうまく設計する事で取り除いていく努力を必要としていると考えています。 PRADAさんの指摘では、行政のサービスを今後の展開の中で、極力最小化していく事もお考えの中にあるように思います。その展開の方向性には異論はないのですが、都市部と地方の現状で、行政サービスを代替する力は、都市部に比して地方では現状では弱いように考えています。その事を克服するために、今いろいろと地方でも取り組みだしてきた状況のように考えています。少しづつではありますが、民間の力で行政サービスに依存しすぎてきた事から脱却の試みは、されつつあるように思っています。エコマネーなどの取組みもその一環だとの認識です。しかし、少なくとも今までは地方に行けば行くほど、産業の育成にしろ、都市計画にしろ、行政依存をしなくては成り立たない状況だったのは残念ながら事実だと思います。官から民への移行を、都市部と地方でそのペースを少し調整しないと、逆に改革のプロセスに混乱がないかと懸念しています。 都市計画のありかたにも触れられていますが、都市計画を自前で考える能力こそ、これからの地方の課題であると私も考えています。行政サービスの質を落とさず、自立した物にしていく基本は、自分の地域にあった都市計画の立案・実践であると兼ねがね考えていました。そこで必要だからとの論理だけではなく、費用対効果もキチンと考察できうる事が求められている、だからこそ人材論なのだと思っています。この事には、官僚文化からの脱却という視点も大事だと感じています。(官僚は必要である事を主張するときにコストをあまり考慮しないように思います。) 力うどんさんへ。 行政サービスに限らない地域の交通システムのあり方を、高齢化や環境の事を考慮した形で力うどんさんには、是非いい物を考えていただきたいなぁと考えています。(これは自分達の地域での話題ですが、23日に行われるワークショップに期待しています。)閑話休題。最近テレビで外務省の田中外相と官僚との軋轢に関して報道されない日はありません。この事態をどのように考えればいいのでしょうか?アメリカとの関係をどのような形で捉えるか?中国とは?はたまた台湾とは?そうした外交戦略的な見方もあるでしょうし、政治家と官僚の関係性としてどうなのか? という視点もあります。また、多くの国民が支持しているとされる田中真紀子外相への批判を許さない雰囲気という物が健全なのか?等等、みなさんはどのように感じられているのでしょうか?何より、こうした事態が何を生み出す事となるのか? という点についての考察をお聞かせください。私自身は、田中外相が何と戦っているのかが、本当のところ今ひとつ理解しきれていないのです。国民が機密費の問題の解明を望んでいる事はそれなりにその通りと思いますが、ロシアとの領土問題やアメリカのミサイル構想に関して、外交のあり方をはたしてどれほど考えているのかは、少々疑問なように考えています。官僚と政治家の関係性に関して、外交というテーマでの役割分担がどのようになされるのが望ましいのかなどは、重要なテーマのような気がしています。また外務省に限らず、国の方針を誰がどのようなプロセスで決めていくのか?そうした点が今回のある種の混乱からもう少し見えてくるのであれば、少々時間や費用がかかってもいいようにも感じます。今までそうした事は国民の中では議論すらされて来ていなかったのではないでしょうか?その辺までも、見えてくる軋轢であってくれれば、有益ではないかと思います。背景は深い問題を含んでいるのではと思っていますが、批判的な意見を持つ人も、大いに意見を言えばいいと思います。改革しようとする人だから、批判する事を許さないとの意見も様々なフォーラムに散見しますが、改革も中身次第です。もう少し改革の中身を見もしないで批判するだけで糾弾する事はやっぱり変ではないかとの冷静な議論を続けないと、政治家自身判断を誤る事になりそうで危惧します。 PRADAさんからオフ会をやったら?との提案がありました。個人的にメールを下さる方からも同様の提案があり、真剣に考えてみたいと思っています。こうしたネット上での議論は互いの顔も知らないところで、それぞれの年齢も職業も違った人どうしが政治について議論をしている訳ですが、互いを知らないからある程度客観的な議論が出来る利点もあります。互いに相手に対して立場を考慮しすぎて物を真正面から言う事が遠慮されて、本当に問題視するべき論点を避けてしまう事はこの国では往々にして起こりがちです。しかし、それと同時に互いにその実態を明かさない事によって、相互に誤解などが生じた時にその齟齬を埋める事が難しいという欠点もあるように思います。そう言った意味では、約半年の期間それなりに議論を重ねてきたこの時期に、互いの存在を議論相手にさらすと言うか、HP上での言葉では伝わらない思いを話し合う機会を持って、各自がどのような事を今の政治や社会に向けて考え、どのようにそこに向き合おうとしているのかを確認してもいいように思います。 PRADAさんは山形か東京でやったら、との提案ですが、取り合えず私は7月の5、6日に東京に行く予定があります。その時にでも東京のどこかでお会いするような設定をしていただける人が居られれば、そう考えています。そうでなければ、鶴岡に足を運んでいただく方を募って、私が企画したいと考えています。オフ会に賛同する方からのご連絡をお待ちしています。 |
Subject:「航路のプライス・ダウン」 |
Subject:「澤田の論〜交通インフラ論〜」 Date: 2001.6.12 今このサイトでも、力うどんさんとPRADAさんの間で、様々な事が提示されていますし、政治の場でも道路特定財源の一般財源化のことが話題となっています。公共投資の中でも、国が行う社会インフラ整備の中で交通インフラ形成が、大きな物になっている事はその特質上当然の事と思います。人材とともに様々な産業の立地条件の中で交通インフラの有る無しはかなり大きな要素となるからです。人材は移動できますが、その移動の利便性の悪い所では、相当の特殊な資源でもない限り産業を誘致する事が難しい事で、今の時代は非常に大きなハンディを持つ事となります。しかし、その大切な交通インフラのあり方が財政的な無駄を生んでいる事は前々から指摘されてきたところです。 PRADAさんの指摘されている総合的な交通システムがない状況を改善するためにも省庁毎のインフラ整備を止めて、総合交通網を作るべきであるとの事は菅直人氏が以前からよく主張されていたように記憶しています。また、アメリカで親子2代に渡って時代の先を見た交通インフラを政策に掲げてきたのが、ゴア全副大統領でした。ここでの交通インフラは情報を運ぶインフラという広い考えで捉えています。二人がスーパーハイウェー構想と表現した考えは、時代の流れを映し、お父さんが現実の道路を作ったのに対し、息子のアルバートは情報を交通させる通信網を構築したのです。この二人のゴアの政策を考察するために物流もある種の情報であると捉える考え方をします。 つまり情報がその国の成熟度によって少しづつ違った形の物になる事を考慮して、交通インフラは効率よく構築される必要がある事を、ゴア親子はよく理解し、形にしてきたのです。日本にそうしたビィジョンを明確に示す政治家がいるのでしょうか? 財源をどうするとの分け前論的な議論ばかりが目に付き、これからのこの国が活力を持つための交通インフラ(情報インフラ)は少ない財源をフルに生かして、どのように在るべきか? といった議論が表にならない事は不幸な事のように思います。地域毎の発展段階が大きな較差を持つ事から、自分の所にも他に負けないインフラをと知事さん達が言わざろう得ない事も理解できますが、少し横並びの感が否めません。現状では、東京や大阪のような大都市との連絡の良さが大きな意味を持つでしょうが、地域毎にもう少し智恵を発揮すべき時期ではないかと思います。先に書いた総合的な交通インフラ論と少し矛盾するように思われるかもしれませんが、道路も空港も鉄道もとフルエントリーする事が出来る事なら望ましいとしても、その為の財源を全ての地域に振り分ける事は現実には無理があるだろうし、従来の物流のみを考えたそれぞれのインフラ間にはある種のトレードオフの相互関係があるのです。自分の所はどのような地域になるとのビィジョンを持てば、どのインフラを優先すべきかとの議論があってしかるべきではと考えます。例えば、ブロック制にでもしてそれぞれの地域毎の総合交通インフラ計画でも作成し、財源もあまり個別の施行に国が関わらないようなやり方は如何な物かと思います。四国と東北、さらには北海道それぞれに必要な交通インフラは違ってしかるべきでしょう。また首都圏は他の地域と大きくその構築すべきインフラが違うはずです。物流という狭い考えではなく、情報の交通という捉え方で、投資を考察してみるのが、合理的ではないかと私は考えます。 今は物流が異常に全国で行き渡っています。その事が一律のサービス提供という見方からすればいいことではありますが、逆に地域毎の個性を失わせる均一化を加速しすぎて、地域の活力を奪っているとの見方も出来るように思います。その事のメリット(競争による品質の向上)を否定はしませんが、何事に拠らず、サービスに東京中心の序列が出来過ぎて、地域毎の個性を失う事を過度に引き起こしている気がしなくもありません。闇雲にインフラを欲しいというのではなく、自分の地域では今後20年くらいの期間で、このインフラを中心に産業の活性化を図るとか、社会保障のやり方を考えるといった構想を考えるべきではないかと思います。 そこで通信インフラはこれからの地域間の競争をある程度公平にするためにも、その効率化をはかる為にもあまり格差が生まれないように整備する必要があると思います。そこに格差がありすぎると、地勢的な条件によって発展性が拘束される従来の経済格差を埋める事が難しくなると考えるからです。情報の伝達システムを共通の基盤にして、如何に魅力のある地域作りが出来ているのかを発信する事を通して、個性ある地域を作っていく事が望ましいと思います。そして、自分のところで生まれる財を地域の内外で流通させる為に、道路による流通がいいのか、空路による流通がいいのか、はたまた海路がいいのか、といった地域毎の工夫があっていいように思います。そういった意味では、菅氏が構想している総合的な交通網はある程度大まかでいいとの立場で、その間を繋ぐインフラに地域特性を活かすような物を漠然とながら考えています。 オフ会の事でPRADAさんから私の上京時(古い表現です、笑い。)にプレオフ会をやったらとのご提案がありました。全国から一斉に皆さんが参集するオフ会を開催する事は難しいでしょうね。しかし、もしも互いの顔を見ながら十分に議論をしてみようと多くの人がお考えであれば、真剣に企画します。私も自分の仕事の性質上あまり頻繁に外に出て行く事が出来ないのですが、こうしていろいろな方と議論を積み重ねてきた事を大切に考えていますし、文字でしか知らないこのサイトの関係者(何か変な表現ですが、、、。)の方がそれぞれにどのようなお立場で頑張っておられるのか?という事には正直言って興味があります。もう少し皆さんのご提案が出てきてから、出来るだけ多くの人とお会いできるような企画が現実化すれば嬉しい事だと考えています。場所はやっぱり鶴岡がいいと個人的には考えています。オフ会を最初にやるとすれば、私がある程度みなさんをお迎えすることとなるでしょうから、自分の土俵にてお迎えしたいようにも考えています。 こんなサイトを始めた奴がどのような所に住んでいるのか、興味がありませんか?その前に、今回東京で会ってみたいとの方がPRADAさんに限らずいれば、軽いのりで合ってみるのも一興かもしれません。滅多に東京に行く機会もありませんし。まだ少し日がありますので、私と会ってもいいと考える奇特な方はご連絡ください。 |
Subject:「息子のアルバートは情報を交通させる通信網を構築したのです?」 |
Subject:「高速交通網整備の三種の神器について」 |
Subject:「特性を飼い殺しする交通体系」 |
Subject:「澤田の論〜ふたたびJMMについて等など〜」 Date: 2001.6.15 以前(1/28)に作家の村上龍氏が主宰するメールマガジンJMMについてご紹介した事がありました。金融のプロを中心とした各界の一線で活躍する人たちから村上氏が出した質問にそれぞれの立場から意見を述べるという構成になっているメールマガジンです。糸瀬茂宮城大学教授や証券会社の戦略部門の責任者など、その論者は多士済々です。 今このメールマガジンでは、小泉政権がその素案として提出を予定している骨太の経済戦略についてとか、ハンセン氏病における控訴断念などについて各論者が様々な検討をしています。大変興味深い事が書かれていますので、是非覗いて見てください。 村上龍氏は小説家ですが、最近では小説家が政治の場でも大活躍です。石原東京都知事、田中長野県知事などが大きく取り上げられていますが、物書きの表現力や物事を見る力が政治に生きる時代なのでしょうか?政治家の資質の捉え方が、少し違って来ている事の証なのでしょうか?もう少し観察を要するかもしれませんが、政治家がその能力を考える時に、政策形成能力と共にその政策を広く広める能力が求められるようになってきていて、表現者である作家が注目される基礎になってきているのかもしれません。政策のプロというだけでは、何をやっているのかが多くの人に見えず、支持を集めれない状況が強まっているのかもしれません。 それから、この前に掲載した『論』に大変な事実誤認があるとの事をPRADAさんから指摘ただきました。「アルバートは、、、、」という件ですが、私のミスです。確かに、情報ハイウェイ構想を宣言しましたが、実態としては構築出来ていないし、各国で亜米利加以上のシステムを構築している例は特にアジアに見受けられるので、私の書いた事は事実に反します。訂正させていただきたいと思います。丁度本日の新聞に日米でもADSL料金が逆転したとのNTTシンクタンク発表の記事が朝日新聞に掲載されているようにアメリカの優位を覆すような動きが加速されているようです。いずれにしても訂正した上で、通信のインフラが出来た後に何が問題かを考えると、発信する情報の中身がさらに重要視される状況になってきている訳で、今後通信インフラ整備が出来た先の競争力強化を競う時代となってくる事は間違いないでしょう。つまりHPを開いて満足ではなく、そこのコンテンツ勝負にならなくてはという事だと思います。 交通インフラ論に書きたかった事は、各地域にそうしたコンテンツの個性化が必要である事を背景にしています。個性を自分達で自己確認する、あるいは再定義する事から、地域にあった交通インフラ整備の構想が検討される必要があるのではないか?との主旨です。そこに東京へのアクセスがどうのとの視点ばかりであった事を少し冷静に考えてみたら、地域の個性によって本当に優先順位の高いインフラ整備の姿が見えてくるのではないかと考えています。力うどんさんの表現されている三種の神器がフルエントリー出来れば、多少の競合による非効率性を考えても、選択肢がある事で利便性が高くなるでしょう。しかし、全て自己資金で地域でインフラ整備を出来る訳ではないのですから、順序を決めて地域の発信できるコンテンツに最適なインフラを優先して整備する戦略が必要なのだと思います。 それにつけても、人口の偏りやコンテンツを高める基盤となる研究機関などが都市部にこれだけ集中する事は、交通インフラの整備の戦略を各地域で構想するときに大きなハンディキャップになっているのではないでしょうか? あまり公平性を追求しすぎると問題があると思いますが、この国の都市と地方の落差は歪な物であるように思います。様々な投資を過去に行って、両者の格差是正を図る計画は幾度となく検討されてきたのに、ますますその距離が開いてしまい、どちらにとっても深刻な問題を起こしているように思います。均衡ある国土の発展というテーマはインフラ整備だけでは達成できない事が、今までのやり方で明白です。一律な物を望むのではなく、過度の集中と分散を全体の効率化とそこに住む人の満足度のためにどうすればいいのか?どのような政策のプロセスが有効なのか? そこに税制のあり方が大きな要素として検討されるべきなのかと考えています。非常に複雑で難しいテーマなので、今後Date file等も作りながら、考察してみたいと考えています。 |
Subject:「人材論」 |
Subject:「交通インフラ、目的と手段」 |
Subject:「澤田の論〜結論を持っているわけではないのですが〜」 Date: 2001.6.16 狸巣庵主人さんから人材論をいただきました。このサイトのスタート時からのメンバーからの久しぶりのご意見をいただき、大変嬉しく思っています。 論旨は私も同意します。人材論として、5/31の『論』に私の考えを掲載しましたが、東大に入る学力を持っている人達は学習能力や問題の解決への理論構築などの面では、流石という人が多い事は紛れも無い事実だと思います。ただ、能力の多面性というか、状況が求める能力が違っても全て対応出来るものなのか? という事になりますと、当然オールマイティである訳も無いのですが、社会が安定した状況が続くと本来多面的な人間の能力評価も安定秩序を維持するために、単純な基準で硬直化しやすくなるのが常なのでしょう。ここで考えておかなければならない事は、ガルブレイスの言葉を引用して書いたようにその時の主流の価値観での有能な人が全ての能力においてもまた優秀であるとの錯覚が生まれ易い事でしょう。それと同時に在る一つの基準で見たときに優秀である人が、別の能力を欠落しているという事も相関がないという当たり前の事を考えておかないといけないように思います。 東大という存在は日本人にとっては良きにつけ悪しきにつけ議論の対象になるものですが、何事に拠らず客観視、相対化した冷静な見方が必要であろうと思います。東大に進む人の能力が偏った物なのかどうか?これからの時代に求められる能力とどの程度関連するのか? もう少し詳細な検討をしないといけないように思います。私の5/31の『論』は一つの教育論としてお断りをして書いたのも、可能性ある人たちがこの国のこれからに向けて、どのように育っていく事が求められているのかが人材論の根本だと考えているからです。EQとIQという事が提示されていますが、どちらが優れている評価基準なのかという議論よりも、それぞれで評価できる能力がどのような状況で求められる基準なのかをキチンと考えるべきだと思います。そして、社会の中であらゆる場面でどちらの能力がその時点で優位に求められるのかを考えて、それぞれの個人の適性から能力を発揮していただく事が必要なのだと思います。東大を頂点とした学歴で測れる能力が活かされる場面もあれば、社会の実践でしか磨かれない能力を必要とする場面も当然あるという当たり前の事が、長い安定期を経ていく内に、学閥や何やらで忘れてしまっている事の弊害をどのように改善するのか?というテーマは結構大切な物のように思います。 PRADAさんから交通インフラ論にご意見をいただきました。三種の神器のフルエントリーを肯定する主旨で書いていないのですが、書き方が悪かったのでしょうか?むしろ論旨としてはPRADAさんの主張と大きな差異はない事を書いているのです。ご指摘のあった文章は、“三種の神器がフルエントリー出来れば、多少の競合による非効率性を考えても、選択肢がある事で利便性が高くなるでしょう。”という文章ですが、その後にすぐ、“しかし、全て自己資金で地域でインフラ整備を出来る訳ではないのですから、順序を決めて地域の発信できるコンテンツに最適なインフラを優先して整備する戦略が必要なのだと思います。”と書いたように、フルエントリーが目的化していて、財政的にも無理な事を要求するのではなく、コストと便益のバランスからや自分の地域における使いでのいい交通インフラを戦略的に選択すべきとの事を主眼にして書いているつもりです。 また多少の競合という表現については専門家ではないので少し多めに見ていただきたいの思いますが、今の交通インフラはかなり東京へのアクセスという事を意識していますよね。そこで三種の神器がもしもあれば、その時の時間的な余裕や金額的な余裕により、最適化したアクセスを選択する事が出来るのだろうから、あればあったで便利だろうというくらいの意味です。しかし、その程度の利便性の追求の為に三種の神器をフルエントリー出来る状況ではないのだから、優先順位を自分の地域にどのような経済特性などがあるのかよく考えるべきではないか?と書いているのです。書き方が悪いのか、少し誤解されているのではないかと思います。 国内の人口や産業基盤の均衡の問題については、太平洋ベルト地帯という言葉を幼い頃に社会科の勉強で学んだように、日本が戦後先進国にテイクオフするために、あらゆる資源や予算を表日本(古い表現ですが)の都市部に集中する政策を取ってきました。そこで効率的な工業化が進んだ事が、今の日本の経済力を生み出してきたのです。雇用もそうした形である一定の地域に集中する歴史的な経緯から、他の地域は人材や地域に自立的な活力を吸い上げられてきた事は事実であろうと思います。結果として、今の姿があるのであって、ある日突然今の姿がある訳ではないのでは?雇用をもう少し分散する事を考えてもいいのではないでしょうか?都市部の人口も、もう少し少なくなった方が逆に様々な状況変化に対する対応力を生み出し易くないですか?異常な職住の分離をしてでも、みんなが東京にしか働き場所がない事はあまり健全では内容に思いますが。地方のためばかりではなく、全体の利益として、人口の過度の集中を是正する事は考えてもいいのではないかと思います。都市部は土地の値段が今でも高すぎて、土地の収用にコストがかかり過ぎると思います。もう少し各地に雇用の創出効果を持つ産業の目を生み出すインフラを分散しても、情報のやり取り等が通信インフラの高度化で、その効率性を維持できる時代になってきたのですから、都市部の再生は少しも否定する気も有りませんが、全体の生活の健全性をUPするために分散を志向してみるべきのように考えています。地方の為に都市部が原資を稼げないととの事ですが、そのような仕組みになっている事から再考を要する気がしています。 |
Subject:「澤田の論〜innovationを阻むもの〜」 Date: 2001.6.18 構造改革に伴う痛みとして、雇用の問題がやはり大きな論点になってきています。以前からそうした論点で書いてきましたが、需要の創出の為にはどうしてもinnovationが不可欠です。従来の雇用体制を守るだけでは、活力が維持できないようです。そこでこの国に雇用を創出する新しい産業の芽が何故見つからないのか? について皆さんの考えをお聞かせください。私はその一つの要因として、独創性の欠如をもたらす教育や研究分野での硬直性がここしばらくのこの国にあった事を改善する必要性を感じます。これは人材論と繋がる考察になるようにも考えているのです。 独創性を求められる研究分野等で、そこで研究費の決済が学歴のような評価基準によって硬直化しているのではないか?という疑問があります。税金を原資にする研究費なども、基礎分野等で国立大学に優先的に投下される事はある程度止むを得ない部分もあるでしょうが、かなり予算配分が硬直化していると聞きます。出身大学や学位を取得した大学によって研究するための研究費の獲得に大きな違いがある事が暗黙の了解のようになっているようです。であるがために、学位を取る時に有名大学の資格をとることに魅力を感じるという事が多いそうです。そして、国立特に旧帝大は魅力的なのだそうです。いい研究をするためには、研究費用も必要です。その研究費を今の日本で調達するには、民間からの投資という部分が厚くないようです。国から研究費を獲得するが大きな鍵となる時に、研究の質で評価される前に大学名である程度篩いにかけられる風土が強いと感じている研究者が多いそうです。まるで会社での就職活動のようです。一流大学を出る事が一部上場の会社への資格であるかのような、現場での能力への本当の評価をしない、あるいは出来ない硬直化した姿ではないでしょうか。 研究者の能力には今までに無い発想をする事と、その着想を現実的に検証する事の両方が求められる訳ですが、前半の部分は学歴で能力の有り無しを判定する事は難しいのではと思うのですが、もしも研究費が固定化するような風土であれば、いい研究成果が生まれる確率は低下する事は避けようがありません。研究のコストベネフィットを向上させるためには、研究内容そのものによって機動的な予算化が図れる評価システムが必要なのだと思います。以前PRADAさんから海外の研究評価では東大であろうと関係ないとのご意見がありましたが、国内ではまだまだ形式主義と言うか、仲間内での評価に甘えるやり方で大学の名前で予算が取れるというような、現場と遠い発想があるようです。研究という官僚主義から一番遠くなければ成果が出てこない分野でも、そうした硬直化した事が行われる風土は、やはり再考を要する気がします。 評価システムという物は考えれば考えるほど難しい物です。公平性を持たせるためにいろいろ考えていくうちに、本来の目的とする独創性や新規性に対する評価をする事が難しくなるというジレンマが、研究費の評価だけではなく、融資の評価などの時にもあるのだろうと思います。うまく表現できませんが、管理する事に重点が行き過ぎているのが、今の日本の評価のやり方の弱点ではないか?と私は考えています。野放図にやっていい訳はありませんが、少しリスクを取ってでも夢や様々な社会への貢献を目指す人や研究に賭けてみるベクトルを強くしないと、活力が生まれにくい気がします。思考法としては、デカルト思考と言われる分析的な思考法の比重を少し軽くして、目的論から考察する事が必要ではないでしょうか。多くの人が目的論として支持出来る研究や産業を夢を持って構築するために目の色を変えて追求する活力を持つ事が当たり前の雰囲気になれば、希望によってより個人の能力が発揮しやすい社会になるように思えてならないのです。頭のいいと言われる人は心配が先に立って、大きな夢を現実的でないと否定的になり易い気がします。しかし、絶対に失敗しない等という事は想定する方が間違っている事ですから、少し大まかでも大きな先を見た構想を熱意を持って考え追及する、そんな研究や人材が求められていると私は考えています。 |
Subject:「骨太な観光政策の展開を」 |
Subject:「雇用ではなく個人レベルでの価値創造でしょう」 |
Subject:「澤田の論〜くにのかたち論〜」 Date: 2001.6.20 PRADAさんの今回の『論』は私の理解を越える物でしょうか? 国富を産むのは、成熟した国では都市であるとの事なのでしょうか? 少しその論点を整理しないと、よく分からないと言うのが、正直な感想です。分散を私が必要と書いているのは、成熟の一つの方向性としての多様性を生むために過度の集中を是正する事を考えての事です。 前に首都機能移転の論議の際や土地の価格の事に触れた時に書いてきたように、過度の集中はかえって全体の効率性を落とすとの考えから書いてきました。今現在の市場価値だけで、この分野は良いとか悪いとか、そうした視野だけで物事を考える事は危険ではないでしょうか? 都市部でしか生産性のある事業が出来ないような偏りを加速させていく事には危惧を感じてしまいます。今までにもかなり産業の基盤や人材を都市部に集中させてきましたが、その流れのままでこれからもやっていくべきだと考えておられるのでしょうか? どうもその辺の主張の根本が私の中で、上手く消化できずにいます。議論する時に相手の主張を分からないとする事は時として卑怯な手段に成り得るので、極力避けようと思いますが、PRADAさんのご主張は本当に分からない部分があります。 そもそも都市生活の魅力は都市のみで生み出せる物ではないように思いますし、PRADAさんが少女趣味と言われる私の考えが何を指しているのかも私には良く分かりません。今までの論議の中でPRADAさんは都市が地方を賄う事が現実的と書かれて来たのですか?都市は自立しているのに、地方は何をしているとの事なのでしょうか? 申し訳ないのですが、論旨が見えません。国の予算の中で地方交付税等で地方に厚くお金をかけて来たのに、地方が疲弊してきた現実をどのような原因からだとお考えなのでしょうか?都市の人間だけが努力してきたからですか? 本当に良く分かりません。 澤田先生へ ------------------------------------------------------------------ 一律な物を望むのではなく、過度の集中と分散を全体の効率化そこに住む人の満足度のためにどうすればいいのか? どのような政策のプロセスが有効なのか? そこに税制のあり方が大きな要素として検討されるべきなのかと考えています。 ------------------------------------------------------------------ で、都市に集中する動機、担保として「雇用」が大きいと思います。税制で地方に雇用を創造・誘致できる前提がないと論になりません。また、税とは公正、平等が前提です。国内関税みたいな論理にも受け取れる文脈です。 前の投稿で書かれている都市への集中の動機・担保に雇用が最大の要因である事には同意します。その上で私の考えでは、人口分布のアンバランスが様々な課題の解決の妨げになっている事を解消するためには、もう少し各地域に雇用を生み出す仕掛けが必要との考えを書いてきました。職場と住居の距離があまりに離れてしまい、家庭における父親の姿が見えなくなった(最近は男女共同参画社会で母親の姿もなくなりつつあるかもしれません)事や、ごみの問題などはあまりに人口が増えすぎて深刻な問題を引き起こしているのではないでしょうか。大気や水などの質の低下なども都市がその空間で許容しうる人口を越えて集中する事による弊害は大きいように思います。しかし、それでも都市部に人が集まっていく事の要因は、都市部が地方に比べて魅力的なためばかりではないのだと思います。もう少しいい生活環境を望むのではあっても、それでも都市部により多くの人が集まっていく事の大きな要因は雇用があるからとか、チャンスがあるからという事なのではないでしょうか? 全体の利益を経済的な事のみで図る事は出来ないでしょう? それはある意味止む負えない選択である事も少なくないと思います。しかし、生産的な仕事をする環境は集積性が全てではないと考えてみる事は少女趣味なのですか? 知的な活動をするのに適した環境としては、むしろ自然に恵まれたところの方が生産性の高い場合も大いにありうると思います。日本は特に戦後あるゆる資源(ひと、もの、かね)を都市部に集中する事でその活力を高めてきた訳ですが、その結果として都市部への資源供給の場であった地方が疲弊してきて、全体に行き詰まりつつあるのではないかと考えています。大量生産・大量消費型の工業化社会では、そうした集積性を高める事が生産性を高める為には必須の条件であったと思いますが、そこから次の成熟を果した情報化社会では、もっと様々な価値を生み出すシステムにならないと行き詰まる気がします。今の都市部から生まれる価値観だけではなく、田舎というか地方から生まれる価値を多様に活かしていく事が求められているのでは? ただ、制度上の制約などから地方に潜在的にあった魅力を失いつつあるように思うのです。しばらく都市部へのキャッチアップという価値観に縛られ、自分達の地方の魅力を再定義したりする力が衰えている気がします。人材も育成するには、その育成に必要な実践の場があまり無い状況に陥っているのではと考えています。そういった視点からすれば、そうした地方の潜在力を生み出すためには従来の橋とか道路と言ったインフラも意味はあるかもしれませんが、もっと智恵を生み出すためのインフラが求められていると私は考えています。日本の中で都市機能を歴史的に見れば作り得ているのは高等研究期間を持っているところが殆んどではないでしょうか?PRADAさんの指摘されている通り、都市に雇用が生まれ、それに引きつけられて人口の集中が結果として起こっています。その流れはある意味で経済原理に沿ったものでしょうし、ある程度以上経済的に満たされてくると多くの人が求める魅力を都市が持つからに他なりません。 問題はそうした都市機能を今の都市が何を原資にして獲得する力を持ってきたか?という考察です。そこには国としてのビィジョンがあっての集中投資があったのではないでしょうか? 西欧先進国にキャッチアップすると言う国民の多くが納得した豊かさへの道のりを共有してきたから、他の国から驚かれるような急速な成長が歴史的・地勢的な幸運と相まって達成できたのだと思います。しかし、そうした目標・ビィジョンは1980年代頃から徐々に機能しなくなってきたのではないかと、私は考えています。工業化社会の豊かさの追求とは質の違う豊かさ、豊かさと言うよりは幸福感という価値を生み出しうる社会システムを志向し始めているように考えています。個々の人間が幸せをより感じれる仕事のあり方、働き甲斐のある仕事を持つ事、お金も大切ではあってもそれだけではない生き方、何かそうした価値を達成できないと満足感が充足しきれない国になってきているのではないかと考えています。私の考えの方がより抽象的で分かり難いでしょうね。 しかし、現在地方分権や広域行政、さらには国の行政システムが時代に符合しなくなったとされて、いろいろ改革しようと試みられ始めている根本は、財政論的な危機からだけではないと私は思っているのです。もう少し様々な社会的な要素も含めて考える要求から、起こっている改革の機運と捉えるべきだと思います。もう少し時間をかけて、その辺を明確に書いていきたいと思っていますが、その考えからすると分散と集積を上手く組み合わせないと解決しない問題なのではないかとの私の論点を今以上に書いていけるように思っています。 |
Subject:「澤田の論〜力うどんさんへ〜」 Date: 2001.6.20 「骨太の観光政策の展開を」の論大変興味深く拝見しました。国民性の違いなのか、それとも日本が余裕(時間、お金、精神etc.)においていまだ先進国になり切れていないためなのか、いろいろ分析はあると思いますが、根本にあるのは、私の考えでは人間のあり方への考察の差のように思います。力うどんさんが「遊び心」と表現されている物が人が幸せになるためには不可欠な物であるとの考察が薄い国だと感じませんか? お金も大切ですし、地位も大切ではあります。しかし、その為に自分の個性を少し抑えて生きるほうが生き易い国になってしまい、力うどんさんが「心つくり」と表現されている部分もどんどん薄くなってきたのではないかと本当に憂慮します。精神論と言えば、何か実体の無い事を指すように捉えがちですが、よくよく考えてみると「物つくり」が世の中で本当に役に立つ為には物を作る人の心が、世の中にある種の志を持つがゆえに物を作る事で人が笑ったり、幸せになったりという好循環が生まれるような気がします。力うどんさんの発想の根底にある人間観のようなものを感じます。 観光政策の方向性に関して、最近鶴岡に出来た慶応義塾大学の研究所が地域の活力を生み出すお手伝いとして、市民と連携をして何が出来るかを検討するワークショップを平成11、12年に渡って行ったときに、一つの方向性が見える議論をしました。従来の観光はマスに対する働きかけに偏って、経済効果に対する考察ばかりで、旅の価値が薄っぺらい物であったように思います。グリーンツーリズムと言われる自然を題材にした都市と地方の交流にしても、今ひとつ通過型の観光という枠組みから脱却しきれていないとの慶応義塾大学の妹尾賢一郎教授のアドバイスを受けて、E3(3乗=キュウブと呼びます)という交流プログラムをシステム化する事を検討しました。3つのE(Ecology Experiment Education)で表現される要素が相乗効果を持つような形で、気づきを生む交流をする事を目指します。時代の流れの中で、余暇をただ休む時間と捉えるのではなく、自分の中の新たな価値や何かへの思いに気づく学ぶの時とする有意義な交流をシステム化できないかという議論でした。遊ぶという事はそうした価値を創造する底面もある事を考える事があってもいいと私は思います。それに反して、中曽根民活の流れで起こったリゾート開発は底の浅い物でした。もっと遊べと言いながら、深く遊びを個人が考え、選択する機会を提供する物ではなく、開発業者が提供する施設をお金を払って味わう事に押し付けるだけの物でしかなかった様に思います。バブルに浮かれ、余剰に獲得したお金を大した考えも無く浪費する事を推奨する、私から言わせて貰えば戯けたやり方でした。あの時のリゾートブームは不動産デベロッパーと政治が結託して演出したじつに教養の欠片も無い金儲けの手段としての観光政策だったと思います。話を少し広げると、あの時の中曽根氏の提唱した「アーバン・ルネッサンス」も今盛んに言われている「都市の再生」を謳った物でした。しかし、結果は惨憺たる傷を残しただけでした。都市の土地の価格維持が目的であった、あの馬鹿馬鹿しい失政にの繰り返しにならないように本当によく考えて欲しい物だと思います。 何故遊ぶ事が大切なのか? 少しは考えてみる必要があるのではないでしょうか? 遊んでばかりいては、どうしようもないのでしょうが、上手な遊びには独創性や想像力が必要です。お金を使うためだけの、否使わされるだけの頭を使う事の無い遊びしか出来ない事は、与えられた事だけを消費する受身の生きかたの反映なのではないか?何か、そうした問いかけが力うどんさんのご意見にはあるように思います。遊ぶ事を積極的な価値創造と結び付ける再定義が為される必要がある気がします。 欧米の観光業が産業として上手く成り立っているとの事ですが、夫々に自分の持つ自然や歴史の魅力(アメリカはあまり長い歴史を持っていないのですが、逆に歴史を作る努力を相当洗練された形で進めているように思います)を熟知している事が上手くいっていることの背景にあるのではないでしょうか。また働く事と人生を楽しむ事の両立への志向が当たり前の事となっているのではと思う事があります。日本が形のみを真似るのは危険でしょうが、歴史的に見れば元々私達の国も遊びが下手なばかりの国民ではなかったはずなのに、明治以降特に昭和初期の準戦時体制と言われる1940年頃からは、どうも遊び心は排他され、さらに敗戦によって自分達のアイデンティティの喪失が重なり、文化に厚みが無くなり、遊ぶ事にも智恵が働かなくなってきたのかなぁとも思う事があります。ゲームの分野での活躍は非常に頼もしく思うのですが、歴史や自然を楽しむ事などの遊びは元々日本人が繊細な形で得意としていた部分なのにその感性などは後退してきているように思います。それも成熟と受け止めるのか、どうかは意見の分かれるところなのかもしれませんが、都市に住みながらも自然との触れ合いを求める要求は逆に強まっているのが現実のようです。その要求を満たす智恵を失いつつある事などは憂慮すべき事なのではないでしょうか?偏狭なナショナリズムの為ではなく、自分の国の素晴らしさを自分達でちゃんと分かる事が、観光政策においても基本なのではないかと私は考えています。観光と教育が相関関係があると言えば分かり難い話になってしみますが、価値観の喪失と衰退は非常に密接な関係があると思いませんか。骨太の観光政策には、投資を施設に大きくかけるといった事以上に、遊ぶ心を膨らませる教育に投資をする事が必要なのかもしれません。 その上でアクセスの利便性向上などにも、上手に投資する政策メニューが構想されるべきなのでしょう。道を作ってその場所に行きやすいように幾らしても、その場所に魅力が無ければ行かないのです。その魅力を作る事と相手に上手に伝える事が出来なければ、単なる物作り(物を作る事を軽んじて書いているわけでは有りませんので誤解なきように)で終わってしまい、グリーンピアのような悲惨な無駄を生み出しかねない事を繰り返す事でしょう。経営手法の合理性も大切ですが、魅力ある観光とは?という原点への考察無しには話は膨らまないように思います。 |
Subject:「いま少し、「骨太観光論」」 |
Subject:「東京一極集中と地方」 |
Subject:「農政の失敗が原因では」 鶴岡力うどんさんへ |
Subject:「「企業のリスクを社会が負う制度」と「“澤田の〜今時の政治〜”に全面賛成」」 |
Subject:「澤田の論〜単純な分散を良しとしての分散論ではありません〜」 Date: 2001.6.24 PRADAさんから少女趣味との評価をいただいた、私の人口分散論について少し書いてみたいと思います。産業の生産性が様々な集積の高いところから生まれるとの主張は現在経済財政担当大臣をされている竹中平蔵慶義塾応大学教授なども指摘をしているところです。少しその主張を引用してみます。「なぜ都市が重要化といえば、都市こそ価値を生み出す重要な場所だからです。たとえば、21世紀の新しい成長産業といった場合にイメージされるのは、国際的な金融業であり、国際的なコンサルティング業、ソフトウェア産業など、いずれも都市型の産業です。工場であれば地方の広い土地があればよいのですが、21世紀の成長産業は、人が集まり情報が乱れ飛んでいるようなところでなければできないビジネスが多いのです。」 天下のマクロ経済政策の研究者に楯突く事が出来ると思いませんが、それで地方はどうするの? と聞いてみたくなります。また成長産業として挙げられた産業は、本来であれば他の生産活動をサポートする為の物ばかりです。つまり製造業や農林水産業といった現場を持っている産業で、実質的な生活に必要な物を生み出す産業を効率化するための産業なのではないでしょうか? 金融商品が、如何に沢山あっても食べ物がなければ生きてはいけないでしょう?お金があれば、買えるというのは、余剰生産が前提ではないでしょうか?都市に住む人間にしか理解されない考え方と言っては語弊がありますが、少し話がバーチャル過ぎないでしょうか?今の資本主義の中では、そうした産業が花形ですが、生産活動に関わった仕事をしている人間の価値を軽く見ていないのか、少し心配になってきます。勿論、あらゆる産業がその生産性を高める事を目指さないと、日本のような高賃金の給与体系をしている国は、競争力を失う事が現実ですから、そうした分野で優秀な人材がどんどん活躍していただきたいと思いますが、地方に住む人間からすれば、空気や水、エネルギーさらには食糧などの都市で大量に消費する分野は誰が作っているのですか?と聞きたくなります。その部分は本当に適性な価値を与えているのですか?勝手に都市の生産物に高い価値付けをしている事の矛盾を感じないのですか?と少し聞いてみたい気がします。 私が分散論とPRADAさんから名前を付けてもらった考えを書いているのは、生産現場での価値をそれぞれの地域に自分達で高める知的インフラを求めるからです。残念ながら、農業分野の人たちは自分達の商品である農作物を、上手に売っていく部分で力を持っていません。本来であれば、農協がそうした部分で力を発揮すべきだったのに、力不足というか、自分達も農業離れを起こして、土地に走ったり、金融業で失敗したり散々です。私が知的インフラを地方にと言っている時に、竹中教授のいう国際何とかではなく、自分達の地域にある生産者を効率的な事業経営者にする知的支援をするレベルで求めているのです。都市にしか成立できない産業だけでこの国が上手く行くと考える人はそのようにやればいいでしょう。しかし、そうした産業は本来生産する場を持つ産業のサポート産業である事からあまりに乖離して行動すると、社会の不安定要素になる事を忘れないでほしいと考えています。 土地の資産価値が下がる暴論との指摘を受けましたが、土地が資産価値をどの程度持つ事が健全なのかという点で、私の考えと今の経済の考えが違うのかもしれません。銀行の担保主義からすれば、土地の値段が高い方がいいのでしょうが、そこで営まれている経済活動の価値を本当に今の土地が反映しているでしょうか? また国際的な生産性を比較した時に、日本の土地はまだまだ安いのでしょうか?逆に土地のような本来的に生産に結び付かない資産が高すぎる事は、変化が激しい時代には新規の産業を生み出し出していく事の障害になる事が考えられるのではないでしょうか?東京とニューヨークとの土地の価格の差よりも、地方都市の間の価格の差が大きいとの分析が原田泰氏が書いた「都市の魅力学」にありましたが、土地はそれだけでは何も生み出さない物です。生活インフラや交通インフラを整備して、情報が集まる仕組みを持たせて価値がついていくのでしょう。しかし、そこで生産される経済価値とは別の投機的な価値がつきすぎて、国際基準に合わないほどの価値を無理矢理つけているのが、今の日本の姿ではないかと私は考えているので、本当に付加価値を高める努力をする事で今の値段がついているとは思えないのです。周りの人が働いて価値が高まって、売る時に高くなって喜んでいる人が案外多いのではありませんか? 逆に伝統的な商売を継続的にやろうとする人にとっては、土地の値段が知らない内に高くなる事で、相続税を払う為に土地を手放す事を余儀なくされて、次第に町に小売のような仕事がなくなっていく、そんな事を続けていくうちに町は働く場所では会っても住む場所ではなくなってきた気がします。それもこれも成熟ですか? 少女趣味でもなんでもいいですが、短期的な経済の原理で全てが片付けられてはかなわないなぁ。長期的に見れば、経済的に見ても私は逆の不経済を生むと考えています。 もう少しバランスの取れたそれぞれの地域に生産の場所と、生活の場所が両立できるような発展を目指す考えがあってもいいのではないでしょうか?子供に対する教育のあり方にも関連するかとも考えています。竹中大臣も職住接近が都市の魅力との事を言われていますが、今の東京の規模でそれが可能なのかは私は疑問です。もう少し多極分散と集積性をいいところ取りする知恵が必要なのではと考えます。移動に毎日往復で2,3時間もかけている、それでもこれだけのパフォーマンスを成し遂げる日本人が、もう少しましな都市計画で、考える時間可処分時間を生む政策で力を発揮できるように考えられたらと思わないでも有りません。そのための通信インフラの高度化なのではないのかと思います。しかし、竹中大臣はそれでは本当の付加価値を生み出す形にはならないと言われるのです。どの程度常に集積している必要があるのでしょうか?毎日顔を合わせている事が必要なのでしょうか?IT化がもたらす社会変化はそうするとどのような事なのでしょうか?どうも私には良く分からないのです。 今よりも分散して居住環境のいいところで仕事をしながら、通信インフラを最大限利用して行きながら、定期的にでも直接意見交換し会う中でコラボレーションするやり方が出来ないものでしょうか? |
Subject:「澤田の論〜今交通政策・地域版〜」 Date: 2001.6.25 昨日地元の都市計画マスタープランを元にした「これからのまちづくりを考える会」に出席してみました。その分科会で交通のあり方を考える部門に出てみて、いろいろ感じた事を書いてみたいと思います。 まず、都市計画の作り方が前とかなり違ってきた事を感じました。アメリカの都市計画のあり方にかなり関心があるのですが、住民参加という物が鶴岡のような規模の町では以前よりかなり進んできているのではないかと思いました。勿論、かの国での成長管理と呼ばれる市民参加での成熟したやり方にはまだまだ及びもつかないのでしょうし、自治意識のあり方やこうした場面に参加する市民のスキルが全然違いますが、兎にも角にも大分様変わりしてきている事は確かのようです。ワークショップ型の合意形成手法を市民にいろいろな形で学習してもらう事で、市民参加といっても陳情合戦で終わってしまう事からの脱却が少しずつ進んでいく事が期待されそうです。普段から、こうした都市計画に関する制度上の問題などを市民が学んでいく事を積み重ねていく事で、自分達の生活の隅々まで政治が入り込んでいることをより多くの市民が感じる機会が増えれば、今まで以上に政治を見る姿勢が出来ていく事も期待できるのではないかと思いました。 交通の分野で少しの時間話し合ったのですが、やはり都市計画において交通インフラをどのように考えるかは大切な視点であると感じました。中心商店街の活性化のために歩いて暮らせる町をつくろうとの視点や文化資産を活かしたまちなか観光という事を構想しようにも、車中心の町作りでそうした事が上手くいくようには私は考えていないのですが、道路をそうした構想に合わせて整備していく事は容易な事ではありません。土地の収用や様々なインフラ整備のために経費がかなりかかるでしょうし、車で移動する事に慣れすぎている住民意識を変える事も難しい事です。しかし、ただ通り過ぎるだけの町でしかない今のままでは、流通コストがどんどん下がっている今の時代に中心市街地で小売店が生き残っていく事ははなはだ難しい事になってしまいました。それぞれの店の個性化などの戦略と同時に、その一帯がじっくり遊ぶ空間として成り立つ戦略を取っていく事を努力する事と、そうした利用をし易いような交通インフラの整備を併せてやっていかない限り、再生は望むべくもないと考えられます。 またバスのこれからのあり方がどのような物になるのか、という事が話題になったのでしたが、バスの利用者は昔から交通弱者であるとの分析があり、私立病院へのアクセスの事などが話しにでてきました。そこで、福祉バスのような従来の手法もあるのだから、一般的な利用と分けてかんがえるべきとの意見もあったのですが、私自身はそうした考えは少し古いのではと思います。誰でも利用できる公的な交通インフラを民間で効率よく運営するような事で、個別の自家用車依存から上手な使い分けをする事が、環境的な側面から求められる時代ではないかと思っています。町の真中が駐車場だらけになってしまう事は、経済的にもロスが大きいやり方で、決して上手なやり方ではないと思います。荷物があるとき等自家用車での移動が便利な時とか、いろいろあるでしょうから何でも脱車社会とはいかないでしょうが、町を楽しむ為にも車に依存し過ぎない町作りを交通政策では追求してもらいたいと考えています。車に便利なような町は出会いも生まれ難い魅力に乏しい町になり易く、経済効果は物が運び易いだけの町となってしまいがちです。そのような事しか利点が無ければ、郊外に拠点を持つ大型店に行ったほうがいいに決まっています。少しくらいの義理でのお付き合いの買い物くらいしかしなくなって、自立した魅力ある商店街なんて夢にしかならないように思います。不便でもそこに行く位の魅力を持つ店があれば別ですが、町には一軒、二軒の店の頑張りだけではならないでしょう。そういった意味では、多くの市民が待ちの真中に商店街を存続させる事を納得する意味付けを当事者が構想を作る事も求められるように思います。それには、物を売るスペースとしてだけの戦略では到底無理なので、観光や高齢化の中での居住空間という他の意味付けとの連携を模索している事は評価出来る事のように思いました。都市間の交通インフラを想定した形で書いたインフラ論でも触れたように、そこで生まれるコンテンツと交通インフラとが戦略的にマッチングする事が大切で、そこに足を運ぼうと思わせる力を生み出す事がまず求められると思います。その上でその事がより利用し易くなる事で相乗効果を高める為の交通インフラ整備との捉え方が無くて、ただ駐車場が整備されればというような考えでは、町は再生しないのだと思います。 |
Subject:「一極集中より二極集中の方が良いのでは」 |
Subject:「余剰生産ではなく食糧も一商品では?」 |
Subject:「私の幸福論」 |
Subject:「H.Y.さんへ都市間競争を煽る以前に東京は寄せ集め集団では?」 --------------------------------------------------------------------- |
Subject:「澤田の論〜市場原理
is not all?〜」 Date: 2001.6.27 市場原理がもたらす物が行き着くところはどのような世界なのだろう? と最近よく考える事があります。市場が与える価値は常に合理的で、「神の見えざる手」によって、もしも適正でない価値付与があっても、いずれ調整されるとの事を公理として疑う事の無い経済の考え方をしていく事の危うさを考えるのです。その上で、世の中で市場によって大きな価値を持つ物だけで私達が幸せになれるのだろうか? とも考えてしまいます。少女趣味なのでしょうね。フェアトレードのような考え方も、市場に価値観の押し付けをもたらす物でしかないのでしょうか? そこでの疑問としては、経済学とは一体何をもたらす為のものなのでしょうね。 中等教育で学ぶべき経済原理が理解されていないのでは? との侮蔑的な事を書かれていますが、何でも市場に任せて済むとは到底考えられないですよ、その事を理論的に説明する能力は私の能力を超えているようにも思いますが、端的に言えば、市場が全てを決めるかのごとき論理は、単純過ぎる考えであると私は思います。農業の価値も環境を保全する事に重きを置くだけで済むなどという考えには申し訳ないけれども賛同しかねます。もともと食糧生産のためにあった農業を他の商品と同列にする事が誰の了解の下に常識となったのか? 教えて欲しい物です。世界規模での食糧危機の事を書くと、扇動と書いてくる人の考え方には不経済の外部化という発想が強いのではと警戒してしまいます。金融で生み出す価値は何ですか? 数字上のトリックに近い物ではないでしょうか? 株券に値段をつけて、起業の初期費用や新規の経費を捻出する事が出来る仕組みは人類の智恵とも言うべき物ですが、それだけが一人歩きして、場合によっては国さえも不安定な物にしている状況があります。そこでの判断基準は閉じられた組織内での効率性であり、将来への夢などは全然カウントしません。ですから、評価を受けるためには内部の不経済な部分を他に押し付けて、自分達を守ろうとする事に痛みを感じない人間ほど富を持ちうる、非常に変な事がまかり通ってしまいます。 市場の評価を入れて、例えば行政の無駄を無くす事には賛同しますが、市場が万能な物とも単純に考えられないとも思います。都市が富を生む事は否定した事はありませんが、その時に都市で生まれる価値だけで生きていけるのだろうか? との思いはあります。日本で取れる食糧であろうが、外国から輸入する食糧であろうが、作る人の思いが込められて作られる物であって欲しいと少女趣味で思います。農業の価値を市場は不当に軽んじているとの思いを私は持っています。それこそ南北格差を生み出している根源的な考え方であると思っています。都市から生まれるサービスの価値が認められないなどとは言いませんが、都市部の人が日本に限らず、地方の生産物を正当な価値で受け取っているとは思えない事が、南北格差を固定化しているのではないのでしょうか? 悔しかったら、先進国になってみろとでも言いたいのでしょうか。 先進国が幸せで、それ以外の国が不幸なのでしょうか? 先進国であろうとして、多少の事には目を瞑って、頑張るのが進歩なのでしょうか? どうもそうした考えには、歴史的に進化した人間とそうではない人間でもいるかのような価値観が感じられます。文明の発達による福音が多大なる事を認める立場ですが、国の中に起こる全ての事が市場価値を適正に価値付けられているとは到底言えないと私は考えています。その考えからすると、先進国という言葉もある優越感からの捉え方であろうと思います。全ての国が先進国になるはずはありませんよね。後進国とかつては呼んでいた途上国があって、先進国があります。さまざまなルールが先進国に有利なように決めているのが、現状の南北格差が固定化された世界でしょう。その一つのイデオロギーの役割を果している考え方が市場主義である側面もあるように思います。市場価値を先進国が決める流れの中で、地球規模の環境問題の深刻化も生じていると考えています。少女趣味ですね。少女趣味で結構です。 成熟と表現する事の意味は何ですか? 生きる為の必須の物の依存が増える事が成熟なのでしょうか? 都市が成熟して、お金を生む、その金であれもこれも買えるから、豊かでいいじゃないか、そんな考えでいつまでやっていくつもりなのでしょう? どうも経済が分かると、貧乏な人間の気持ちが分からなくなってくるようです。市場は万能ではありません、市場が価値判断の出来ない価値に環境があるからこそ、今までうまく解決できていないのでしょう。市場が判断できれば(市場に間違いがないとの公理が正しければの話ですが)その内解決できるかもしれないと言えるかもしれません。そのためには市場を構成する人間がそれなりに賢くなる必要があるでしょう。私は今の市場の判断が絶対正しいと単純に信じるほどナイーブに考える事が出来ないひねくれた考えをしています。所詮人間が考えた市場が、そんなに完全な判断をする物だとは最初から思っていないのです。 しかし、不完全でも部分的に効率性を高める為の一つの基準にはなり得ると上手に使うくらいの事はしようと思います。 無限に成長していけるとの幻想を持つほど慢心する事も愚かしい事ですし、都市部においての生産力は限りなくバーチャルな人間の欲望を掻き立てる事に偏ってきているとも感じています。都市において生み出される価値を全面的に否定する物では有りませんが、地方があっての都市であるとの当たり前の事を言っているだけだと思いますが。その上で、集積性によって効率が高まるとの考えも、程度問題ではないかと書いているのです。東京が世界の中で競争力を持てる都市であり続けるためには、さらなる集積性を高める事が本当にいい事なのでしょうか? 東京の都市としての魅力を高めるのに人口が増える事がいい方法だとは私は考えていません。周辺から毎日流入してくる膨大な昼間人口も含め、あまりにも過度な集積のための非効率な部分があると考えています。それは単純な経済効果だけでカウントするのではなく、外部化して目を瞑っている不経済な部分(ごみ、エネルギー、移動時間によるロスなど)を考慮すれば、少し働く場所の居住環境の改善によるupを自分達のために、都市部の人たち自身が考えればいいでしょう。そして、不経済の部分の外部化を止める事が出来る方向を模索してほしいと思います。都市が外貨を稼ぐのだから、少し外部化をする事には文句を言うなという時代ではなくなっているのです。 竹中経済財政担当大臣が言われている成長産業にまつわる話と、農業よりも飲食業のほうが雇用や富を生むとの見解からの産業の高度化をどのように考えているのか? との問いかけですが、前段の話と後の話ではかなり次元の違う話で、どのようにお答えしたらいいのか、悩んでしまいました。しかし、そこでの捉え方としては、雇用を生む産業がいい物だとの点で共通する事を主張されているのだろうと、解釈して、私の考えを書きます。竹中大臣が成長産業に挙げられた物は他の産業をサポートする事から生まれた産業ではないか? と言った点には同意いただけるのではと考えていますが、どうでしょう。金融業や通信といった産業がそれだけで価値を持つと考えるのは無理がありませんか? そこでの進歩は他のあらゆる産業の効率化に役立つ大切な産業で、非常に高いスキルと知識の集積を求められる分野です。まさに都市でしか競争力を持てない産業で、我が国がアメリカなどに遅れをとった場合、国益を損なうと考えるべき部分です。だからその部分の強化のために特に東京にその機能をさらに高く持たせるための投資を行う事などは望ましい事だと私は考えます。しかし、しかしです。金融と通信だけがあって、何かが生まれますか? 本来それらは他の産業が活発に活動できるためのツールではありませんか? と言っているだけです。銀行が生き残って、それを活かして活動していく他の産業がなくなってしまうような話になりかねない事は愚かしいから考えてくださいと言っているだけです。また、農業と飲食業は同じように食べ物を扱っている産業としての対比でしょうが、農業なしで飲食業が成り立つ訳もないのですから、雇用創出の多寡でどちらを選ぶという問題ではないのでは? と思います。食糧を作るのは他の国の人、食べたり作ったりはこの国の人という図式が大前提での比較論ですよね。雇用を吸収出来ない産業は役に立たないと考えるのでしょうか? 産業の高度化を考える時に適切な対比とは言えない例示のように思います。 また現在進んでいる産業の高度化と言うか、成熟化と称される物はダウンサイジングをリコンストラクチャリングいわゆるリストラと呼んで、雇用を切り捨てる事での経営上のキャッシュフローを重視する物が主流なのではないかと思います。雇用創出を本当に考えている経営者はあまり見受けられません。以前トヨタの会長が雇用を守るのが会社の使命との事を表明した時に、格付けが下がった位リストラをする事で、利益率を上げる事を求める流れは強いのでは?そうした考えを主張する人たちがいろいろ産業の成熟化などのという言葉を語っている中で、本当に産業を高度化することが雇用創出に繋がっていくのか? はよくみていく必要がある気がしませんか? ワークシェアリングなり多くの人で仕事を分け合って、雇用を守りあっても全体の効率が保てるような産業の成熟を果せるように、都市において様々な智恵が生み出されてくるのであれば何も文句を言う気はありません。 知的インフラこそ共用出来るとの事ですが、地域の発展戦略を考える拠点はそもそも地域間の競争力を持つために必要と考えているのですから、全てを共用出来るとは考えていません。今までのように地域の将来像を決める都市計画まで、国がほとんど考えて地方に落とす時代ではなくなっていく訳ですし、地域の人材を地域で育成する力を高めていく事が求められるのですから、物より智恵をそれぞれの地域で高めていけるような拠点としてのインフラがどうしても必要だと思います。交付税も段々削減は必要ですが、その条件として、国の関与を受けすぎない形で自分達の地域政策を自分達で構想していける力をそれぞれの地域が持たなければ、それも実現できないと思います。その根本に自分達の地域特性にあった産業を育成する力が必要で、財政基盤を自立にむけて企画できる力を持たせるインフラが、長期的な視点からは一番投資すべき物と考えている事から、主張しています。歴史的に、そうした知的インフラを東京を中心の都市部に集積させる事が行われてきたと私は考えていますが、事実誤認なのでしょうか?定住圏との事ですが、定住圏を自立した形で成立させるには、そうしたインフラを備える事は必要だと思います。その自立を支援する事無しに、お題目で定住圏と言ってきた事で地方に活力がいつまでも生まれてこなかったのではと考えていますが、どのように思われますか? 土地の資産価値についての事ですが、土地の資産価値を高めるように努力をした結果高くなることを否定しているつもりはありません。ただ、土地にあまりに価値創造を期待する事が銀行の担保主義を生んだり、能力や将来性という物への評価が出来なくなった根幹に、土地神話があると考えているし、資産を持つ事は本人の努力だけではない事から格差を生む部分で、今日本で生じている階層化の中で本人の資質向上と違った側面からその格差を固定化して、機会も含めた不平等を生んでいる物と考えているのです。資産運用も知的な事なのだから、それはそれでという事になってしまうのかもしれませんが、過去の土地に纏わる様々な歴史を考えれば、決してそこに本当の競争原理での価値付けがされてこなかった事が多いのではと思います。全ての土地の資産価値を同列にしようと言いたいのではありませんが、事業の付加価値以前にその立地で金を用立てれるような資本主義は新しい力を生む努力が出てき難い物なのではないでしょうか?東京に外国からの投資を呼び込む時にも、土地の価格が高すぎれば、それに見合うだけの生産性を確保する事に躊躇が生まれ、投資意欲の阻害要因になるように思いますが。 いずれにしても浅はかな経済知識の中で書いているので、様々ご批判ください。真摯に受け止めて学んでいくつもりです。しかし、しかしです、経済原理も人間の考えたある側面を捉えて物ですから、それだけで全てを判断できると考える方が、何か大きな物を見落としている事も考慮するべきではないかと考えます。 |