| 策の論●Free Index 〜2001年9月 |
2001.07.02■「澤田の論〜これからの国富論〜」 策の論/Freeへ戻る |
| Subject:「澤田の論〜これからの国富論〜」 Date: 2001.7.1 最近このサイトで、国富を生む主体は都市なのか、他にもありうるのか、といった議論がされましたが、そもそも国富って何を指すものでしょう? アダム・スミスの「国富論」から当たり前に使われている言葉ですが、その正体は意外に分かり難いもののようです。PHP新書から出ている京都大学大学院人間環境学研究科教授である佐伯啓思教授の「アダム・スミスの誤算 幻想のグローバリズム資本主義(上)」に拠れば、スミスは重商主義批判から「国富論」を書いたとの事です。重商主義の基本命題は“富とは貨幣なり”という事ですから、貨幣万能と捉える事が国富を考える時の絶対的な前提という事ではないのだろうと私は思います。 エコマネー概論とのタイトルの文でも、貨幣経済を否定する事からエコマネーを考えているのではなく、行過ぎたマネー経済の是正としての並行通貨としての「エコマネー」という物を様々動かす事で、お金というものに振り回される事無く、自分達の幸せを形にする方法論を広く捉えて考察してみたいと考えているのです。国富を大きくする方法は、貿易のみではないとも思います。逆に、以前自民党総裁選挙での亀井前政調会長の主張への考察として書きましたが、貿易によるGDPの押し上げには、様々な制限要素があり、長期的に大きな成長を維持する事はかなり難しい時代となってきています。バブルの引き金になったプラザ合意も貿易収支の不均衡から、歳入超過である事の是正を求められた我が国が、内需中心の経済構造に転換を迫られてのことからでした。単純な形で表現すれば、製品を輸入して外貨を稼ぎ、その利益を国民で分け合う仕組みがあまりに強い事を外国から否定されたという事だろうと思います。外貨を稼ぐ事も世界の中での調和を崩す事無くという上手なやり方をしていかないと、ルール変更で折角積み重ねた財を自分達のために使う事なく、収奪されてしまうのが、今の世界経済なのではないでしょうか? どうしても国内である程度循環する事で経済を運営できる部分を増やしていく方向性が求められると考えられます。 また国の名目上の豊かさが増える事と、実際の生きていく実感としての幸せ感との間に大きな乖離が出てきているのも前々から指摘されてきたところです。日本は経済的に豊かであるのだから、何をするにもお金で貢献して欲しいと言われて、様々やってきました。そうした貢献も出来うる事は今後も継続するべきだと思いますが、貿易収支を大きく黒字にする事にその原資を求め続ける事は如何なものかと思います。勿論資源の無い我が国は貿易立国以外の選択肢はその利益のシーズが製造物であろうと科学技術であろうとないのだろうと思いますが、国際的なバランスを失わない黒字の中でやり繰り出来る仕組みを内部の効率化、内需による経済循環型成長等で構築していく事が求められていると考えます。 プラザ合意以後、公共土木事業にシフトしたのが、過去のそうした要求に対する処方箋だったのですが、内部の効率化が進まない事やそれに続く循環を産む力が弱い事で、結局財政による自転車操業的な物に陥って、どうにもならなくなったというのが、今までの経過なのだろうと思います。社会インフラとして、道路や橋をどんどん立派にする事で経済効果を産む時代ではなくなってきているのです。成熟という観点からすれば、その産業の中でしか価値を生み出さない投資ではなく、他の産業に広く波及効果を持ちうる物に投資をする事が求められるのが、成熟した国に求められている知恵なのだという事なのだと思います。そこで私が考えている物のキーワードは対人サービスの高度化をもたらす投資というものです。例えば、高齢化した社会での生活の質を落とさないためのインフラなどがそれに該当します。これからの日本は他の国に例を見ないような高齢社会に突入します。従来の産業生産人口を基準にした考えでは、当然働く人口が減って来る中で、減少する生産を働けないより多くの人口が分け合うという構図から将来に対する不安が高まり、不安からくる景気の停滞が問題を複雑化する悪循環を生み出す、そんな状況がまさに今の日本ではないでしょうか?実際の高齢者の生活を間近に見る事も核家族化の中で、殆んど無くなっている世代が、高齢化して今の基準で働けなくなった先に社会保障も信頼出来ないと、消費活動を抑制する事が景気の足を引っ張るという形で保障制度を揺るがす、そんな悪循環でどんどん暗い気分が強くなっているようです。 確かに人間は年をとると様々な点で不自由な事が多くなってしまいます。また従来の捉え方からすると生産性を持った仕事が出来なくなる事も現実でしょう、しかし市場での価値がつかない労働にも、社会の中で意味ある事は本来沢山あるのではないでしょうか?地域の歴史を語り継ぐ事とか、若い頃からの経験を活かした地域活動とか、市場価値としてはあまり大きく評価の対象となっていない事でも、実際にはその事がある種の社会の安定に貢献している事などは結構あるように思います。そうした事の価値を見つける事で、老齢をただ生産活動の残りの時間としか見ていかない寒寒とした社会でない物に戻す努力も、必要な事だと思います。ほんのちょっとした事まで市場での商品に置き換えて、GDPがどうしたと言っていては、社会は不安を持つ事を商品化していると考えているように思います。制度としての社会保障論と同時に、本来自分達の手で賄えていた事まで、福祉として行政や産業に頼ってきた流れに少し棹さして、自分達でやる中で単なる負担ではない捉え方の出来る物へ転換する努力が出来ないものかと思います。社会インフラもそうした自立を支援するような投資をする事ならば、みんな納得するように思います。 私達の町である鶴岡で今盛んに議論されてきている“歩いて暮らせる町作り”というコンセプトなども、単に老齢者への対応という事ではないのでしょうが、そうした側面での効用が大きいのではと思います。車を中心としたスピードを競う社会から、歩いてじっくりと生きる社会への転換といった時代の要請をどこか反映した試みなのではないかと考えます。そうした地域社会の受け皿の充実無しに制度を弄ってばかりいても、不安が小さくなる状況ではないように思います。つぎはぎだらけの今の社会保障制度を、じっくりみんなの納得のいく制度に変えていくのには、そこでの調整を冷静に受け止める余裕が地域のあり方などに生まれる仕込作りと並行して考えられないと、自分が損か得かという視点からの争奪戦の様相を呈して、安心の出来る議論になり難いように思います。 国富という言葉から大分離れたような事を書いているように思われるかもしれませんが、豊かになる事が何を目指しているのか? という点での共感が多くの人で共有されないところで名目の豊かさをただ追い求めてきた我が国の戦後からそろそろ脱却するという事を大きな視点として持つ事を考え、提案していきたいと思っています。 |
| Subject:「澤田の論〜選挙とインターネット〜」 Date: 2001.7.11 公職選挙法とインターネットによる選挙活動の関係について、参議院選挙後に総務省で検討に入るとの記事が出ていました。インターネットによる政治への関与を公職選挙法との兼ね合いでどのように規定するか、という事はこのサイトのあり方にも関係する事なので、少し興味を持って見ているのですが、現行の法律は公平な競争を妨げないようにという精神から?知名度のない候補者が様々な方法で、自分の政策を訴える機会を奪っています。資金力がある候補者がどんどん制限なく広報活動をする事を認めた場合、アメリカの大統領選挙のような資金力がある物が勝つ選挙になる事が心配されるとの声がありますが、インターネットであれば、そうした莫大な資金を持たない人でも広報活動が出来る事から、うまく取り入れて事が求められていると考えます。 選挙期間中のインターネットによる広報活動は、微妙な物になりそうです。特定の候補者に肩入れした事を書いて更新すると、頒布行為として戦況違反になってしまうケースも考えられます。そういった意味では、参議院選挙が公示された後のこのサイトでも内容において、違反と取られるような事は書かないように注意する必要がありそうです。 公職選挙法は、お金がかかる選挙を止め様との主旨から様々規制を強めてきていますが、逆の効果としては新規参入というか、現職や地盤などを持つ人にある種の既得権を与えかねない要素を持っています。現在の制度では短い戦況期間中は、じっくり政策を訴える方法がほとんど有りませんし、あっても大きな政党にしか事実上活動が出来ないような制度になっています。今までの文書の配布や講演会を開いたりする政治活動では普段から政策を訴えていくには経費が膨大にかかる為に、普通の市民活動をしている人が訴えたい事があって選挙に立つ意思を相当前から固めて行動する事はかなり難しいでしょう。 インターネットはそういった意味では、自分の政策を多くの人に非常に安価な形で発信する事が出来るツールで、民主主義の門戸をコストのかからない形で多くの人に開く可能性を秘めた物だと思います。IT化という物は組織論的には、意思疎通のフラット化という物を導き出す事で、効率的な意思決定を生み出す物ですが、政治においては直接的な民主主義をその特質上作り出す物だと思います。成熟した国民が増えていく過程で、どうしても活用すべきツールであろうと思います。参議院選挙の後の検討で、政治の活性化のためには是非前向きな活用を考えて、法律を政治参加を促すような方向で検討していただきたいと思います。 またそれと同時に、選挙期間中だけ政治に関心を示す政治とのかかわり方でなく、普段に政治家に政策を問う事や、政策の積み上げに協力するような関与をする事が大切なのだと思います。今政治に対する関心は近年になく高まっています。その思いを政治家に届ける事が従来はかなり大変でしたが、インターネットで相当にその壁が低くなってきています。勿論そうした声を聞こうとする姿勢を持たない政治家に対しては、従来通りの接し方しか出来ませんが、こうしたツールの有効性を理解する政治家は急速に増えている状況ですから、選挙を重ねるたびに多くの国民の意思を確認しながらの政治が進んでいく事は間違いのない事だと思います。その状況を生かすためにも、ネット上でのマナー等に参加する人が節度を持つ事は、折角の便利なツールを生かすためにも是非とも考えていく必要を感じます。こうしたサイトを運営する事を経験してみて、そうした事への自覚が大切だとつくづく感じます。 |
| Subject:「澤田の論〜靖国問題を巡って〜」 Date: 2001.8.7 8月15日の終戦記念日が近づいています。毎年この時期には同じように靖国神社への参拝を時の総理大臣や閣僚といった国の機関を担う公職にある政治家が、どのような対応をするのかが話題になります。そんな中でも今年は小泉総理が中国や韓国の強い反発があっても、参拝すると表明している事で一層注目されています。 参拝に賛成の人は中国などの姿勢を内政干渉と受け取ったりしていますが、被害者が加害者へ無神経な事をするなと咎めているとの見方もあります。 この問題はこの国におけるタブーに触れる面を持っているのだと思います。国家神道の象徴である靖国神社に小泉総理が出向く時に、個人的な思いで参拝するでは済まないのではないかと思います。宗教と国の関係、戦争責任の問題など冷静な議論が出来ずに来たこの国の根源に関わる問題を突きつけるテーマです。 私の周囲でもこのテーマに関してどのように考えるかを議論する人は確実に増えています。そうした場面で感じるのは、歴史認識を構成する基礎知識が薄い事です。現時点の事とすれば、我が国が戦争という国家意思で命を捧げた人に対し、トップリーダーが頭を垂れて、鎮魂する事に他国が様々抗議をするのはおかしい、との考えも在りうるのでしょうが、鎮魂をする方法如何ではこのような物議を何故醸し出すのかという歴史に関しては、あまり理解していない人も結構多い気がしています。 野中氏が中国に行って、中国側の考えを聞いてきた事がニュースになっています。その際の中国側の主張は「先の大戦は日本国民も中国人民も東南アジア諸国民もすべて被害者であり、一握りの軍国主義者によって悲惨な戦いになった」と指摘。そのうえで「そういうことを含めて歴史的な整理をしている我々の今日までの歩みを直視してほしい」という物との報道が為されている。ここでの一握りの軍国主義者とされている人たちが、A級戦犯という事なのでしょう。靖国神社にはそうした評価をされている人も祭られている為、中国等が、猛然と抗議してくる事となっているわけです。そこでA級戦犯という言葉が誰を指すかも今の20代の若い人たちはどの程度知っているのでしょうか? 日本の軍部の戦争裁判が極東国際軍事裁判いわゆる東京裁判であることすら、聞いた事がない世代が少なからずこの国にいる事をどのように考えればいいのでしょうか? 戦争が平和への犯罪、人道に対する犯罪として裁かれたのは、ドイツでのニュルンベルク裁判と東京裁判が初めてであり、それまでの戦争は国家の権利との認識であった事は、本当にどれ位伝わっているのでしょうか? そうした歴史認識が若い人に育っていない事、もしかしたら意識的に育ててこなかった事の結果として、他国に対してだけではなく、私達の国の中でも、戦争の総括は先送りされてきたのではないかと考えています。当時の指導者達や国民がどのような状況において、どんな思いで戦争をしていたのか、日本に支配されたアジアの人たちはその当時の日本に対して、どう感じていたのか、戦後の歴史の中でそうした感情はどのように推移してきたのか、様々な思いがあるのだろうと思います。私自身の考え方では、そうした事を本当に知らしめて、その上でこれからどうするとの問題提起をしようと考えての今回の参拝の意志表示なのであれば、逃げずに議論すべきと考えています。 私自身は日本人が戦争好きの国民であるとか、残虐非道の国民性を持っているというような形で、世界中の中で劣悪な国民であるかのような捉え方は、歴史をいろいろ学んでいくと少し違うのではと考えています。一部の軍国主義の人間が、という括り方もご都合主義的な感じがしています。戦争という極限状況の中で、様々な犯罪的な行動があった事は事実であろうと思いますが、歴史上の戦争で、その責任が戦勝国の論理でしか裁かれていない事を客観視しないで、自分達の国だけが戦争責任を逃れているかのように卑下する事で、自分の国に対する嫌悪感を募らせる事もすべきではないように思います。 戦争がもたらした様々な悲惨な状況を、無かった事には決して出来ないのでしょうが、もしもその反省を本当にするというのであれば、何があったのかについて語り継ぎ、同じ過ちを繰り返さない為に何が出来るのかを、徹底的に議論しあうべきでしょう。中国がかつての一握りの軍国主義者の罪と、本当に考えているのでもないように思います。ただ、いつまでも全ての日本人に懺悔を求めても、前を向いた話にならないので、どこかで区切ってしまう事で、今後の対応を探っていると受け取る事が妥当な見方のように思います。そこに小泉総理が、そうした括りかたに異論ありとしてか、はたまた戦争に至る経緯から再度見直そうと考えたか、日本が自分達の国のあり方を根本から見直すために、議論を巻き起こそうとしているのか、もう少し今回の行動に関する意図を国民に示すべきではないでしょうか? どうも個人の思い等と言って、敢えて物議を起こす必要性に対する説明がない為に、ただ混乱を招いているようにしか受け取れない気がしています。 誰が起こした戦争でも、その悲惨さの犠牲者が存在します。侵略と考える他国の人だけではなく、戦地に赴いた私達の先祖の人たちも、立場は違っても、戦争によって人生が狂ったのです。その戦争を誰が、どのような目的で起こしたのか?勝った負けたではなく、よくよく見つめなおさないといけないのだろうと思います。本来は他国に言われるからではなく、自分達の手でその事を再認識する必要があるのではないかと思います。その過程で、今の日本がどこに拠って立つ国になるのか、自分達の国の中で真剣に考える事があまりに無かったように思います。自分が今生きている事が過去の戦争とまるで無関係であるかのごとく、目先の生活の事ばかり考えてきたのかもしれません。将来のこの国のあり方と、過去のこの国のあり方に大きな断絶を残したままで、他の国と肩を伍してやっていく事は無理があるのではないでしょうか?特にアジアの国々とは経済的な繋がりを越えてやっていこうとすれば、私達自身が過去とどのように向き合って行こうとするのかは、必ず問われる場面があるように思います。そこで、何があったかも考えた事の無い国民が増えていく事は大変な問題でしょう。 今教科書問題で大きな注目が集まっている訳ですが、近代の我が国の歴史をどのように若い世代に伝えていくのか、もっと早い時期から真剣に問題提起するべきだったのかもしれません。私達の国は素晴らしい国です。もっと若い人たちにこの国の歴史を伝えて、これからの世界において、大いに自信を持って生きていってほしいと思います。そのためにも、自分達の先達が為してきた事を良い点、悪い点ともにもっと学ぶ機会を作っていく責務が大人の世代にあるのではないでしょうか?歴史教科書を作ると言っている人たちの考え方は、今まで封印してきた歴史を明らかにしようとの試みとして、それなりに評価してもいいと私は考えます。ただ、思い入れが強すぎると言うか、それまでのタブー視への反動からか、逆に自国を過大視する向きもあって、相対化して自分達の国と特にアジアの国々と友好的な関係を維持していく時に妨げになりかねない部分があるように感じます。先日の「朝まで生テレビ」という番組で西尾幹二氏(国民の歴史の著者)が、戦争責任はないとの発言をされていたのは、あまりに自国本位の考えではないかと、驚きでした。 日本にだけ戦争責任があるのではない、その事は主張すべき歴史認識でしょうが、幾多の悲劇を日本がアジアで引き起こした事への反省すら無視をするという考えでは、到底理解を得る事が出来ない話でしょう。自国を愛する事は大切な事ですが、関わりを持った他国への思いが無いのでは、西尾氏が多分嫌いであろうアメリカの一方的な歴史観と左程違わないように思います。 神道の精神が日本人の心の基本であるとすれば、自分も大切、他者も大切でなければおかしいのです。国家神道と根源的な日本人のidentityを形づくっている精神的な拠り所としての神道は他者に対する思いやり、寛容の心の持ち方が決定的に違う気がします。国家神道を国をまとめる為の物として使った人たちが、その時代にどうしてそのようにしたのか、その背景などを検証する必要があるでしょう。長くなり過ぎたので、この話題は次回以降にまた書こうと思います。 |
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Subject:「歴史認識-1」 昨今、幼児虐待や車内暴力など沢山の犯罪が多発しています。これは国策として行なわれているのでしょうか? 勿論、そんな事はありません。遵法精神や道徳心の高い人もいれば罪を犯す人もいるだけの事で、日本人が皆犯罪人であるという事でも、日本国が犯罪国家であるという事でもない訳です。 <スタ−トラインは日本開国> |
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Subject:「歴史認識-2」 レーリング判事がその著書で述べているそうです。 東京裁判から4年後に来日時に、 1950年10月15日、ウェ−キ島でトル−マン大統領と会見したマッカ−サ−は、東京裁判は誤りだったと報告しているそうです。 アジア各地で行われた戦犯裁判はもっと酷かったそうです。 |
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Subject:「歴史認識-3」 教育勅語は何か軍国主義の権化みたいなイメ−ジがあり、嫌悪感を呼ぶと思います。原文を見ても昔の言葉ですから難しく、要約を見ないと良く判りませんでした。 |
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Subject:「歴史認識-4」 |
| Subject:「澤田の論〜学ぶべき歴史とは?〜」 Date: 2001.8.10 DMJさんから大変力のこもった論をいただきました。靖国参拝問題を取り上げる事には若干の覚悟がいると言うのが正直なところで、DMJさんが心配されるように、非常に感情的な論戦を呼び込む危険性のあるテーマに成りかねない、私もそう感じています。 しかし、いつかはこの問題を私達の国は正面から取り上げる事が必要なのではないか? そう思ってもいました。ただ、今の国の状況の中で、この問題をクローズアップする事は危険であるとも考えているところなのですが、小泉総理大臣がここまで焦点を当ててしまっては、むしろ議論を避けるべきではないのかなぁとも思い、冷静に考えてみようと論点提示をさせていただきました。非常に大きなテーマであり、本当に大事な事なのですが、この議論で経済や財政の改革の議論が隅に追いやられる事は、絶対にあってはいけない事なので、そこは自覚して論じていきたいと思います。 「過去から学ばない物は将来に同じ過ちを繰り返す」この言葉はドイツのワイツゼッカー大統領が述べた言葉だったように記憶していますが、古今東西を問わない真理を含意した言葉だと思います。私達の国では、近代の歴史を敗戦の前から封印してきたのではないでしょうか?DMJさんが東京裁判に関して、様々な事を紹介してくださいましたが、私も自国の正当性の主張と言うような観点ではなく、これからの世界をどのように直視するのか? という観点から、東京裁判において何が裁かれたのか?その正当性やそこでの判断基準は、今の世界情勢においてどのような意味を持つものであるのかをちゃんと検証してみたいと考えています。「人類に対する罪」として、ドイツと日本が連合国から裁かれた罪は、今の時代までにアメリカや旧ソ連、中国などが犯すことの無かった罪なのか? 本当によく考えてみたいように思います。 こうした点に関して、日本は軍国主義の悪い国だったと言って済ましてきた訳ですが、オランダにあるハーグ国際裁判所において、殆んどの問題に対して個々の国の国益と称する物のための様々な犯罪的と思われる事への起訴に対して、明確な判断を留保しているのが、現実です。それほど国際法と国内法の間でいずれに組みするかの基準が定まっていないのです。現在ユーゴ紛争の張本人として、弾劾にかけられているミロシェビッチ元大統領も、そもそも裁判に根拠がないと争っている状況です。私はアジアの国の人たちへ日本人が何も悪い事をした訳ではないなどという話をしたい為にこのような事を書いているのではありません。私達の国の若い人たちが自分の国が特異な暴力的な国であるような、自分の国を卑下するような思いを持つ事に対して、歴史的な目で相対化する事を求めたいし、これからのこの国を支えていく時に、そこから出発しないと身を縮めて世界の中特にアジアの中で生きていく事になるのではと危惧するのです。他の国もやっているから、と自らの国が他国の国民を隷属させたりした事を正当化する事は慎まなければなりませんが、私達の国が平和への罪を著しく損なう国民であると、アメリカなどに言われる事を由諾々と受け止める事はないのです。あの戦争が侵略的であったとアジアの国民から指摘される事は甘受しなければいけない部分があります。しかし、欧米の植民地支配を当然のようにやってきた国々に言われるのは、筋が違うのではないでしょうか? 戦争責任を誰が誰に対して取るべきか?国民に対して戦争という悲惨な状況を齎したのは一体誰だったのか? あの戦争は回避できなかった物なのか?連合国側に戦争責任は無いのか?私達の国の中で殆んど議論されてきていない事は、やっぱりおかしいのではないかと思います。もっと自分達の国の今に至る歴史を未来に向けて、検証する必要があると思います。ワイツゼッカーの言葉のように過去から学ぶ事は何なのか?はこの国がこれから何処に向かうかに大きく関わっていると思います。もう一度戦争と言う悲劇に引きづり込まれない国であるためにも、逃げずに考えていきたいと思います。 |
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Name:東京都 狸巣庵主人さん |
| Subject:「澤田の論〜学ぶべき歴史とは?2〜」 Date: 2001.8.15 歴史の評価と言う物は往々にして、それぞれの立場によって正反対の物になりがちです。それでも自分の国が過去にどのような状況の中で、どのように振舞ってきたのか? という事を今に活かすために、常に検証する事は大切なのだと私は考えています。その時に今の自分達を正当化することのみが目的になってしまう事は慎まなければならない事でしょう。自分達が生を受けて、育てられた自分達の国をいい国であると思いたいからと言って、自己査定を甘くして、他国との軋轢を産む事に無関心になる態度は、争いの元であるのだから、それなりの節度を失わない冷静な議論をしていきたい物だと思います。 先の大戦に纏わる歴史の評価を、自国に不都合な事実には蓋をして、いろいろ論じ合ってはいけないのだろうと思います。ただ、戦争という物は一方の国の動機のみで行われているわけではなく、その時々の多くの国の利益追求のバランスの齟齬から引き起こされているのです。その状況に対する考察無しに、戦争に勝ったら全てが正しいとしたり、負けたから全てが間違っていたとするような捉え方は、歴史の評価の仕方としては幼稚すぎるのではないでしょうか?我が国が何故あのような戦争をしたのでしょう? 一部の軍国主義者が利権を求めて、国民を巻き込んで自分達のために大陸に進出していった、ある時点からは、そうした見方をせざろう得ないように私自身は考えています。軍閥と言われる資本家と官僚の複合した集団が、大した戦略もなく戦線を拡大したために国が傾いただけではなく、その精神のあり方までも否定された事が今のこの国の混迷の基底部分にあるようにも考えます。 ただ、あの戦争を国民が最初から否定していたという見方は正しくないと思います。その当時の世界情勢から言って、戦争というものを今の日本人ほど悪と決め付ける価値観ではなかったし、日本を追い詰めるような包囲網を敷いた国々があった事も事実だと思います。日本が欧米列強と争って勝てると考えたのかどうか、その辺の状況判断がどのようであったかなどをよく検証する必要があるのではないでしょうか? 勝てるとの見積もりも無く、戦争に引きずり込まれたとの被害者的な見方をしても埒が明かない話になってしまいますが、今般の経済戦争とも言われる状況を見ていると、私達の国はその時点でのスタンダードを追いかけて、少し得意になっては欧米諸国の戦略の変更にいともたやすく打ち負かされてしまう事を繰り返しているのではないでしょうか。 その間、欧米のスタンダードに合わせることに汲々としていて、アジアの国々との連携などを軽んじている内に、アジアでも孤立し、欧米からも本当のところでは異端視されていて、自分の国の本当に目指すべき姿が他国との間で見えなくなっているようにも感じられます。もう少し、復古的な意味ではなく、日本という国の本来目指すべき国の姿に対する自己イメージを自分達で確立して、ゆっくりでもいいから着実な歴史を作っていく為の哲学を持つべきではないかと、思います。 ちくま新書から中山治氏(21世紀日本研究所設立)の書いた「戦略思考ができない日本人」という本が出ています。参考までにご紹介しますが、国家神道を国を束ねる根本においたあの時代には情緒的な連帯を国の束ねにする為に、一方では軍人勅諭と教育勅語を吹き込む場としての軍隊と学校というマインドコントロール装置、他方では不敬罪と治安維持法のような暴力装置が必要であったとの分析をしています。欧米や中国などの国のような「行動原理」を共有する事で固く連帯しあう国に比べて、「情緒」による共同体幻想による連帯のもろさを指摘していて、私達の国のidentity(同一性)のあり方に深い示唆を与える本のように思います。 歴史を検証する時に事実のみで語ると発言する人がよくいますが、事実という物がその見る人の構えで如何様にも変わりえる事を少しでも想像する力があれば、そんなに簡単な事ではない事をさも当たり前に出来るかのように語る愚かしさに気付くのではないでしょうか? むしろ困難な事との認識を持ちつつも、何かしらの目的の為に出来るだけ独善に落ちいらない議論と考察をして、自分達の歴史を見つけていくべきなのだと思います。自分の国にこれから生きていく次の世代に、何を語り継ぐべきかは果てしなく難しいテーマなのだと思います。 このサイトも運営管理してくれている人の関連で、少しupに関して夏休みを頂く形となるので、15日に小泉総理が参拝するのか、どうかが決着してから掲載される事となるでしょうが、いずれにしてもここまで国民の関心を高めてしまった以上は、ちゃんと議論を続けるべきです。周辺アジアの国々の評価も大切ですが、それと同様にか、それ以上に自分達の国にとって、情緒的な一体感幻想に囚われる事の無い歴史認識を持つ契機にするべき時代なのではないかと考えています。まだまだ勉強不足ですが、一人のこの国に生きる大人として曖昧にしないで学ぶ覚悟をしています。みなさんも一緒に考えて頂けたらと思っています。 |
| Subject:「澤田の論〜歴史から学ぶ物は?3〜」 Date: 2001.8.17 このサイトの運営も少し夏休みを、と思っていましたが、そうしている内に13日に小泉総理が靖国神社へ参拝して大騒ぎとなっていました。新聞、テレビさらにはネット上でもその賛否で沸きかえっています。 私がそうした喧騒を見聞きして感じる事は、やっぱりあの戦争の総括は終わっていないのだと言う事です。今までのこの国での戦後は、その事を忘れた振りをする事で来たのだという事です。戦争という物は決して忘れる事の無い傷を残す、特に負けた国には。その冷厳たる事実を私達の国は少しも乗り越えていない、ただその事に触れずに来たに過ぎないのではないか、そう感じました。 「かねがね今日の日本の平和と繁栄は、先の大戦で心ならずも命を失わわざるを得なかった戦没者の犠牲の上になりたっている。家族と離れ、愛する人たちへの思いを断ち切りながら祖国のために散っていった。無念だったと思います、そういう方の犠牲のうえに今日があるということを忘れてはならない。そういう方々に対し、心からなる敬意と感謝の誠をささげたいと思って、今日は参拝致しました。同時に、これからも、あのような戦争を二度と起こしてはならない。日本は平和国家として、これからも世界のためにも、日本国民のために発展していかねばならない。不戦の誓いを新たにいたしまして、今日は参拝した」 これが、小泉総理が参拝後の記者会見でその感想を問われた時の発言です。「心ならずも命を失わざるを得なかった戦没者の犠牲の上に、今日の日本の平和と繁栄が成り立っている。心からなる敬意と感謝の誠をささげたい。」その言葉が、15日に参拝しなかった事で、嘘になるのでしょうか?この問題を政局に結び付ける事は、一番鎮魂の意に反する事のように私は考えますが、みなさんはどうお考えでしょうか? 曖昧にしたのは、A級戦犯と目される人たちへの捉え方に関してです。この事に踏み込めば、戦争責任をどのように捉えているかを、明確にする事が不可欠になる事でしょう。DMJさんから、この事に対しては、ご意見を頂きました。東京裁判を受け入れるか、そうでない立場か、でその後の歴史認識は大きく違ってくるとのご主張でした。私自身の考えでも、東京裁判自体のあり方は、歴史の評価をする時に受け入れがたい矛盾を感じる事が多々あります。その上で、私達の国が無条件降伏をして、その判断を受容した上に成り立ってきた事をどのように考えればいいのか? 今靖国参拝問題で強硬な意見を述べられている方々はその判断を説明していただきたい気もします。 あのような屈辱的な裁きを受け取る気はない、ただ今の時点でそのような強い意見を口にするだけでは、何の解決にもならないのではないでしょうか? 戦争が終わって、その後の世界情勢が冷戦構造の中で、東西両陣営のせめぎ合いが局地的な形で様々ありました。アジアの中でも、中国と台湾、朝鮮半島での民族を分けた動乱、植民地支配から抜け出ようとした際のベトナム、様々な形であの戦争からその後の世界情勢の荒波に翻弄される不幸な戦争が完全に終わっていないと考えさせる状況が続いてきました。その中で、日本は西側陣営に入る事で、当事者になる事を免れて経済発展に邁進する事が出来て、今の繁栄を手に入れてきた部分も大きいように考えられます。今ODAについて、止むを得ずに削減の方針が為されていますが、戦後の日本が復興に際して逆に大きな援助を受けた事は、当時の冷戦構造下での我が国が、西側に属する事に対する代償であったと考えられます。勿論、何処の国も、その時々の世界情勢の中で自国の国益にたって、様々な意思を表明しながら必死にやり繰りする訳で、私達の国の指導者達もこの国を何とか敗戦のどん底から引き上げようと懸命の努力をしてきたのです。 ただ、その大前提が不本意としながらも受け入れた東京裁判やサンフランシスコ条約である事を、今全て無視をする主張をその後の様々な状況を一切顧みないでするとすれば、その事を前提にしてきた全ての歴史を、大総括しないといけなくなりはしないのか?よくよく考える必要があると思います。その総括に立ち向かう事は、非常な困難を伴う事なのだと思います。石原都知事が「今回の事で、また我が国の外交が侮りを受ける。」との発言をしていますが、強い事を言えるだけの対外的な外交努力をどのようにすれば、いいのか?について具体的な発言をもう少し話すべきではないのでしょうか?いつも、他者へその不勉強を嗜めるような発言をして、喝采をはくする事の多い政治家ですが、若い人たちに対して何故そうした立場を取るべきなのかを、そうした歴史的な経緯を踏まえて説明していない気が私はしています。どちらかと言えば、仕方が無い事は忘れてしまい、他の国も左程責任として感じていない責任などに拘らないで、強い事を言えば通る、そのような発言に感じられる事が多いように私は考えています。何も強い事を発言するべきではないと言いたいのではなく、それだけの発言の根底にどのような歴史に対する思いがあるのか、周辺特にアジアの国々に対して、どのような説明が出来る事を背景としているのか?などについて、若い人に分かるように発言されるべきではないかと私なりに思います。 西尾幹二氏の労作である「国民の歴史」は、よく読んでみると日本人が自尊の心を取り戻す事が出来るようにとの思いが伝わる著作であると評価出来る物です。また、戦後の事に拠らず、何故あのような侵略的な国策を取ったのか?という事の時代背景について、よく書いてあると思います。タイトルの通り、日本人の目から歴史を見ていくと、概ねそのように歴史を総括するであろうとの事が詳細に書いてあります。今の時代に生きている私達が何故か紐解いてみる機会を与えられていない過去の事実を丁寧に書いてあり、考えさせられる本です。ただし、近代のアジアに対する記述に関して、中国や韓半島に対する評価の部分は、彼の国の人たちから見れば、あまりに日本の事故正当化が過ぎるとの批判を浴びる事は必至でしょう。まるでナショナリズムに曇った事を書いているとは私自身も考えませんが、自己防衛の為に他国に対して取った事として、全てを正当化する事はやはり出来ないとのスタンスが、求められるように思います。 しかし、戦争が何故起こったか? という根本の疑問に関する認識は確実に高めてくれる資料性を持った本なので、こうした問題を論じる時には一読するべき本であると思います。歴史をいつのセンテンス時制から考察するべきなのか?と言えば、間違いなく現在及び未来に向けてであるべきでしょう。ただ、事実関係やその状況に対してその事案がその当時に生きた人たちの持っている情報等でどのような意味を持ったことなのか?という点に関しては想像力を持たないと、後講釈で全てを評論するだけで終わってしまう訳ですから、自国の先祖がどのような思いで決断したのかなどには、深く敬意を持って見る姿勢を失わないようにしたい物だと思います。その事は、今の私達がその時代に生きた時に本当にもっとその状況をうまく潜り抜けるだけの見識を学び取っているのか?という歴史に学ぶ真の目的に努力しているのかを問う事になるからです。 |
| Subject:「澤田の論〜最近考える事〜」 Date: 2001.9.3 最近日本人の物事の捉え方について非常に興味を感じている為か、河合隼雄氏の「中空構造日本の深層」、久保田展弘氏の「日本多神教の風土」といった著書を読んでみました。以前書いた中山治氏の「戦略思考ができない日本人」もそうした関心の中で読んでみた本なのですが、今の私達の国に欠落している自分達の国に対する自画像を自分なりに考えてみる契機になったように感じます。 経済の事や教育の事、さらには外交の事を様々考察するにしても、自分の考えを規定している日本人としての特質を踏まえて考えていかないと、何か表面的な見方で終わるように思う気持ちがあったからです。教科書問題などを考える時も、私自身が歴史を形づくってきた日本人の精神構造を知らないで、新聞でどのように騒いでいるのかといった視点だけでこうしたサイトを運営していく事は出来ないように考えたこともあります。深層心理学、比較宗教学といった一見政治とは関連のないように見える立場から自分の国を見てみると、それぞれの分野からだけの見方にない大きな視野で捉えられるように感じます。 こうした事を始めようと私が以前にも増して考えたのは、先日参加した宏池会のセミナーで作家のジェームズ三木氏が政治や経済は手段に過ぎないと発言されていた事から、そうした物のさらに深い目的を規定する何かとはと考えた事と、人が何か決断をする時にどのような心理過程からそれを行っていくのかという事をもう少し突き詰めて考えてみようと思ったからでした。それと同時に経済や政治分野の専門家と言われる人達がテレビ等で話しておられる言葉を聞いていても、何か発言が軽く感じられるか、自分の知らない何かに囚われているように感じられる気がしてならなかったのです。前者の場合は発言がその都度違うため、どこにその人の考えがあるのかが分からないので、ある意味論外なのですが、後者の場合、その人が拠って立つ物を理解しないと評価出来ない、そう感じました。例えば、西尾幹二氏達のように日本の歴史という大きなテーマを見直すべきと主張されている人たちの考えがどのような物なのかを私なりに受け止める場合、彼らが書いている事だけを見て、どうこう判断しようとしてもあまり生産的ではないように思えてきたのです。 どういう事かというと、近代アジアの中で日本が何故他のアジア諸国と違った道を選択したのか? そこに日本人の特性が歴史からどのような影響を受け、どのように関連したのか?そうした考察をしてみないと、ただ歴史上こうであった、ああであったという話で終わってしまい、そこで日本を自虐的に見ていると思う人と、過大視していると思う人で延々と何も生まない論争をする事に留まる気がするのです。これからアジアの国々と様々な連携をしてやっていく時に、私達の国と相手の国で物事の発想の違いがどのようにどの程度あるのかを弁えていく必要があると考えるのです。そこでまず、自分達の国を知る事から始めるつもりで以前にも増して、様々な本を読み漁っているという状態です。 |
| Subject:「澤田の論〜恐ろしい事件〜」 Date: 2001.9.12 日本時間で11日夜に歴史に残る事件が勃発しました。ニューヨーク世界貿易センタービル及びアメリカ国防省ビルへのハイジャックした民間機による多発テロです。 この事件の影響は、本当に計り知れないほどの物になるでしょう。世界経済の先行きにもかつて無いような激しい影響が出るでしょう。今の世界の唯一のスーパーパワーと考えられていたアメリカがこの事件でどの位のダメージを受けるのかも想像を越えた物になる事が予想されます。あらゆる国がかつて無いほどに緊密にリンクしている今の世界では、アメリカのみへの影響では済まされない事態です。 誰がという疑問には盛んにニュースでアラブ勢力が背景との見方がされていますが、本当の事は恐らく解明される事が無いように思います。多分大方の予想の延長線上の勢力が関与しているのだろうと思いますが、分かったところで再発を防ぐ事は限りなく不可能に近いように思います。こうした事態を防ぐ為にアメリカが様々な手段を講じたところで、従来の軍事的な手段と違って、あらゆる民間の生活の隅々まで監視する事でもしないと防げない性格の手段であり、アメリカという国が宣戦布告無しに戦争状態に巻き込まれ、いつ果てるとも無い泥沼に引き込まれてしまう状況だからです。 アメリカは今まで自国の国土で戦争をした経験がありません。いつも近代化された武器を駆使して、相手当事国の国土で戦ってきました。一般の国民が無差別に攻撃を受けるような戦争をする事無く来たのです。今回の攻撃を受けて、パニックに陥らないでどのように対処するのかは、注視しなくてはならないでしょう。報復として核の使用などの強硬な手段などを使用するような事があれば、本当に世界は混迷の極みに陥る可能性があります。平和の為に広島・長崎に原爆を落とした時に何が起こったか?をバーチャルにしか感じていなかったような態度を示していた彼らが、非戦闘員の血が目の前で流れる事をリアルな経験とした時に、戦う事が結局は弱い人を痛めつける事に繋がる現実をどのように感じるのかは、今後の世界にとって非常に大きな意味を持つかもしれません。 イスラム原理主義とアメリカ的な価値観は絶対に相容れないのでしょう。このような非常事態時にこうした事を書く事は非難されるかもしれませんが、いつかはこうした事態を引き起こす互いの排他的な価値観では、いつになっても問題は解決しないと思います。最近のアメリカの外交の強権的なやり方は目に余る物がありました。人種差別を無くそうとする目的の世界会議でもイスラエルと一緒に会議をボイコットする姿勢を見せていた訳で、自国の都合ばかり主張する姿勢が目立っていました。だから、テロを受けて当然という事を言いたいのでは絶対にありませんが、自らの利益や価値観のみで他の国を押さえつけてばかりいる事が、今回の事件の根本にある事をアメリカが考えない限り、果てしない復讐の繰り返しになる事で、世界はかつて無い不安定な状況になるでしょう。 |
| Subject:「澤田の論〜宗教戦争への関与〜」 Date: 2001.9.12 昨日今日のニュースはアメリカで起きた飛行機ハイジャック犯のテロ一色でした。この事件の持つ対立構造の重要性、その被害の甚大さからして、当然の事です。 ブッシュ大統領が犯人に対して厳罰を下すと表明し、小泉総理はその報復処置に出来る限りの協力をする事を世界に先駆けて公言しました。自由と民主主義に対する重大な挑戦との認識であるとの声明も出したそうです。非戦闘員を巻き添えにする事を最初から意図する狂気の行動に対して、断固たる決意で再度の行動を防ぐ為に、報復処置が必要なのかもしれません。こうした行為に対して弱腰の姿勢をとる事は、相手に増長を生む物で、更なる行動が許されるとの誤ったメッセージを与える事になるのだと思います。 しかし、死刑制度があっても凶悪犯罪が無くならないように、報復処置が為されたとしても問題が根本的な解決を見る訳では無い事は自明の事ではないかとも考えずにはいられません。報道や最近のイスラム社会と欧米社会の対立を見ていると、段々エスカレートする傾向が強まっていて、非戦闘員を巻き込む形の不幸な事件が多発して、被害も拡大の一途のように思います。現在首謀者と認定されてきているラディンという人物の経歴を見ていくと、アフガンでの内戦時にアメリカが旧ソ連に対抗する為にゲリラとして育てた人物であるとの事です。アラブ首長国連邦の富豪の家に生まれ、そうした戦闘に身を置きながらイスラム原理主義者になった人物なのだそうです。そして、あの湾岸戦争でイスラムの聖地であるアラブの地に欧米の軍隊が駐留する事に反発して、アメリカに敵意を持ってテロに走ったと言われているのだそうです。イラクのサダム・フセインも同じような経歴の持ち主であると聞いています。今回の惨劇は許されない愚挙ではありますが、その原因に遡って見ると、欧米諸国の過去のアラブへの関与のあり方に大きな原因がある場合が殆んどなのではないかと、本当に悩ましく思います。 テレビでパレスチナの人達が今回の事件を知って、喜びを表している映像をみながら、歴史の中での今回の事件の意味を考えて、絶望的な気持ちになりました。豊かな近代的な生活をしている私達と、アラブの人達の落差を生み出してきた歴史をいろいろ学んで見ると、こうした不幸を生み出してきた物を見つめないで、裁く権利を主張してもこの人達には決して通じないのだろうと考えずにはいられない気もします。彼らは日常的な悲惨な人生と戦っている訳で、その現実を生み出してきた側に、ブッシュ大統領の陣営がある事も事実なのではないでしょうか? 十字軍以来と言うか創生の頃から、イスラム社会とキリスト教社会が激しく互いを殲滅するような戦いを果てしなく続けてきた歴史があり、ユダヤ教に対する弾圧がイスラエル建国に関わり、現在の中東の解決不可能と思わせる争いを引き起こされている状況などを見るにつけ、今回の悲劇だけで判断してもいいのだろうか?と考えずにはいられない問題のように思えてなりません。同盟国であり、アメリカとの信頼関係が安全保障上の最優先課題である事から、アメリカのダメージ回復に最大限の協力は惜しむべきでないと私も思いますが、宗教戦争でもある今回の争いに我が国が簡単に首を突っ込む事はかなり危険な事ではないかと危惧せずにはいられません。イスラム社会とキリスト社会やユダヤ社会の間の抜き差しならない対立は、私達の国の文明では本当の所は理解出来ない部分があるように思います。 対立がいよいよ深まった時に、自分達の文明がその対立を緩和するために何が出来るのかを、難しいテーマではありますが、よくよく考えながら、近代社会のルールを守るという点での協力関係を如何に実現するのかという形での協力体制はどのレベルでの協力体制かを模索して欲しい物です。どの神の教えが正しいのかを争うような場面では、私達の国は部外者でしかない事は忘れてはいけないのだと思います。理性での解決策を無視する事が全面に出てくる争いになりがちな今回の問題は、引き込まれるとどうしようもない悲惨な状況を我が国に突きつけるのではと本当に心配です。 |
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Subject:「テロ事件について」 |
| Subject:「澤田の論〜ある雑感〜」 Date: 2001.9.18 9月15日に地元で、サイト『VOICE』とこの『論』を中心とした集まりを開催しました。そこでの議論は近いうちに公開したいと思います。今後年に数回のペースで本当に自分達の地域や国をどのように考えるべきか? 議論を重ねていきたいと考えていますが、今世界中がアメリカでの同時多発テロに対する動きで、騒然となっている為に、地域課題などの話をしていても何か落ち着かない気分になってしまい、主宰する立場としては少々混乱気味です。 1993年にハーバード大学のハンチントン教授が「foreign affairs」に書いた論文「文明の衝突」を現実化するような今の動きを見ていて、本当に湧き上がるような恐怖を感じずにはいられません。文明の基底部分に宗教的な価値観があり、その宗教が自分達以外の神の存在を受け入れない物であれば、対立は不可避な物になる訳で互いを殲滅するまで争いを止めない事となるのであれば、世界はいつまでも分断されたままで破滅的な道を辿ってしまう事になります。前回の論に書いたように、今回の争いがそうした文明とか、宗教を背景とした争いまでエスカレートしないで、安定を志向する世界ルール維持の物としての冷静な形になるように外交等で日本が貢献して欲しいと願わずにはいられません。 現在のところ、アメリカを中心としたテロに対する報復に憲法上の制約の中で、如何に共同歩調を取れるかに議論は集中するでしょう。後方支援の中で、資金提供以外で何が出来るのか? 憲法との関連での整合性を考慮した形でギリギリの線は何かを早急に決める事が求められるのだと思います。懸念としては、同盟国と言いながらも今回のアメリカはかなり日本の存在を軽視している事です。先日のパウエル国務相の会見で同盟国との連携を例示する中に日本が入っていなかったようですし、軍事行動に備えて日本国内で行っている夜間訓練での事前の連絡もルールとして決まっているのにも関わらず、無視をしている事などを見ると、アメリカにとって日本はいざという時にはあまり重要視するべき同盟国ではないと心の底では考えていると判断せざろう得ない気がします。軍事的なテーマでは日本には協力は求めないから、黙っていろとでも考えているのでしょう。我が国が憲法という国の基本を持って軍事上の制約を持っているのは、第2次世界大戦で敗れた事から永遠に軍備解除をするようなルールをアメリカが決めた事なのですから、少々合点がいかない話ではあります。 ただ、あまり自省的になってもとは思いますが、こうしたアメリカの我が国への姿勢の背景に最近の外交の質を疑わせる様々な問題があるようにも思います。例えば、田中外相がニュージーランドの外相との会談で話した内容がリークされた事がありました。今回のテロに関する事前の警戒情報が防衛長官や外相に報告されていなかった事もあります。要するに危機管理としての情報管理すら満足に出来ない国と受け取られて仕方がない失策が続いてきた訳で、今後そうした点での信頼を獲得する事は本当に大切な事ではないかと思います。 イスラム社会とその他の国との泥沼のような争いになるのか? 現在までの安定装置としての国家システムを通じた自由や安全を担保するルールを守る戦いになるのか? 今後流動的な情勢が続くと思いますが、そこでの議論に加わる事さえ出来ない国は先進国ではありません。有事法制整備の議論とともに基本的な情報管理の質を確保する危機管理のあり方も十分にしてほしい気がします。戦前や戦争当時のような統制をする事に目を向ける事はとんでもない事ですが、平時にあっても乱を忘れず、の心構えで他国から情報の共有すら出来ないとの評価を受けるような国であれば、今回の事態がどのような方向に進んでも、その後に世界秩序を決める場に席を持たない国になる危険性を考えなければならないのではないでしょうか。日本はこうした国だから、その制約の中で最大限の支援をしているとの事は何としても理解させる必要があります。こうした事では遠慮をする事は国益に反します。湾岸戦争でお金は出したが、何もしなかったとの批判があると盛んに言われますが、そんな事をいつまでも言わせておく事はないと私は思います。そんな事を言うのなら、その相手は日本と同じようにお金を出してから言って欲しいと思います。 ある価値を守る為には、汗をかけ、血を流せという強硬な意見を純粋な気持ちから言う人もいるでしょうが、よく考えてみないといけないのではないでしょうか? そうした事の裏側では声高に叫ばれている価値を一番蔑ろにしている人達が舌を出している事が往々にしてあります。正義という価値観は自分達にしかないという態度を取る人には気をつける必要があると私は思います。今はそんな事を言っている場面ではないのでしょうが、ブッシュ政権を形づくっている人脈は、戦争によって莫大な富を得る人達がかなり多いのは事実です。何が起ころうとしているのかを注視していく必要があると思います。数千人の犠牲者を出したテロは断罪されなくてはいけませんが、その背景に目を向けないでは、こうした悲劇は繰り返される事を胸に刻んで見ていかなければならないと思います。 今感じるのは、私達はイスラム社会の事をあまりにも知らないで、唐突に今の悲劇をどうこうと言っているのではないか?という事です。イスラム原理主義者という言葉を正確に理解もしていないで、どうしたこうしたと論じても何も分からないのではないかと思うし、テロを行う組織がどのような動機でこうした行動に出るのか?という点を少しは理解しないと、その解決に参加する事も出来ないのではということです。むしろ、アメリカや他の先進国は日本にそうした事を求めていないし、口出しを許さないで事を進めたいと思っているのではと感じるのです。経済分野では少しは役立つからいいが、国際政治では隅に引っ込んでいろと考えているのではと思います。いつまでもそのままでいいのか? そうでなくなろうとする際に、軍事力を持たなければ駄目なのか?少し考えがまとまらないで私の頭の中で迷走しています。 武器を手にする事を目指す事を言いたいのではありませんが、言葉だけでは、との考えが支配的になる場面にあって、これから何が出来うるのかを一人一人の国民が考えていく事が必要なように思います。そこに日本なりの考えがないと、事態が収集する時に、大変な立場に追い込まれる危険性を考えます。 |
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Subject:「千載一隅」 |
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Subject:「日本を防衛しない日本」 |
| Subject:「澤田の論〜show
the flag〜」 Date: 2001.9.19 今回のタイトルはアミテージ副国防長官の柳井駐米大使に述べた言葉です。もしも、アフガニスタンにおいて武力衝突があった際には、国際社会に見える形を日本に取って欲しいとの話の中で語られた言葉だという事です。 親日派として知られるアミテージ氏は、今回のアメリカ国民の報復に対する感情からすれば、そうした形での同盟関係を証明する行動がないと日米の関係が危ういとの認識を示したとされています。この発言を受けて、政府や与党は周辺事態の概念は地理的概念ではなく、今回のような同盟国が危機に瀕している場合は出動が可能だとの見解を、憲法などとの整合性に照らして出来るのかについて、慌しく検討しているとの報道がされています。 夜になっての様々な報道においての分析では、アフガニスタンは内陸に位置していて、陸軍が攻めていくには山脈を越えての長距離の侵攻が必要で、後方支援においてもかなり難しい局面がありそうです。タリバン政権の軍事力とアメリカとの力関係からすれば、完全に制空権をアメリカが支配する中での兵站活動になるのでしょうから、例えば自衛隊が食糧や燃料輸送での後方支援をする事は可能な様にも思います。安全確保も周辺のイスラム諸国が突然襲って来るような事態出なければ、素人考えではどうにかなるかもしれないなどと想像したりもします。 しかし問題の本質的な部分はそうした派遣した場面で何が起こるか、何が出来るのかという事以上にあるように思います。今回の戦闘は長期化が心配される訳で、何を持ってその目的が達成されたとの判断で終結に向かうのかなどに関して、あまりにも不透明な物なので、緊急性や国際社会の思惑を考慮して、それなりの行動を取れる形で派兵したとした場合、様々な問題が出てくることが予想されるのではないでしょうか? 今回の戦闘がアメリカによる単なる復讐なのか、テロという世界共通の危機管理なのか(西欧のみならず、アラブ社会も含んだ)、そこを明確にする手続きを踏まないと、同盟国の立場は守れても、その後の世界の中での我が国の位置付けは難しい物になるのではないでしょうか? アラブ社会において、日本は敵対するべき国とは認識されていないと聞きます。アメリカはアラブ社会から見れば、西欧的な価値観を押し付けて、自分達を搾取する国と本当は考えられている部分があると思います。それ故に、今回のような民間人を巻き込んでのテロに対しても、ジハード(聖戦)という捉え方で、ある種の妥当性を主張させる余地が生じていると考えられます。今回の戦闘では今は被害の大きさから、アラブ社会も表立って異を唱えていませんが、長期化するようであれば、過去の様々なアメリカの干渉に対する不満が出てくる事が予想されます。その時に、一体の敵として見なされるような戦闘の意味付けでは、アラブ社会との連携の道を失います。そうならないような外交努力なども良く考えていかないといけないのではと思います。アメリカに手段を選ばずというやり方を自制させるのも大切な事のように思います。大統領令で要人暗殺を禁止している事を今回取り払う事なども、威嚇としてブッシュ大統領が口にしていますが、逆に相手につけ込まれる余地を与えているような物です。禁止しているのは、過去にアメリカがそうした事を散々やってきた事を表している訳で、考え方が違う相手の国のリーダーを諜報機関が暗殺するという事はある種のテロに当たる事をアメリカが行ってきたという事を、復讐の為に再会するという事になりませんか? アメリカは正義の為にテロ的な事をしても許される、そんな話ではいずれアラブ社会は反アメリカでまとまっていく可能性があり、日本はそれに荷担する国として反発を受ける危険性もあるでしょう。犠牲者が多いから、復讐が正当化されるという話にしてはならないのです。あくまでも世界中の危機管理というアラブ社会も共有出来るテーゼがあっての軍事行動において、同盟関係上だけでない先進国としての責任を果す為に、何をするかを考え、世界に日本としての考えを主張するべきです。すぐにはそうした事は出来ないかもしれませんが、自立した国として今後生きていこうとするのであれば、真剣にそうした事が出来る国を目指さなければならないはずです。そのために軍事的なプレゼンスがどうしても必要なのか?という事も含めて今回こそは全ての国民をふくめて考えないといけないのではないでしょうか?今回の戦闘の意味を他者にその解釈を任せきりでは日本に将来はないのだと思います。他人事でない、日本の危機意識がどこにあるのかが問われていると思います。 |
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Subject:「澤田の論〜当面とはいつまで〜」 |
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Subject:「澤田の論〜原理主義〜」 |
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Subject:「日本の外交支援のあり方」 |
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Subject:「日本の姿について想う事」 |
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Subject:「澤田の論〜よーく考えてみよう〜」 |
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Subject:「憲法について」
*起草メンバ−:オズボ−ン・ハウゲ陸軍中佐 召集から僅か9日後の2月13日に日本政府に提示されたそうです。 「自分達が短時間で十分な資料もないまま作り上げた日本国憲法が、その後一度も改正されていない事を聞いて驚いた。」
では、他国はどうでしょう? 憲法とか法律というのは、政治の大前提である「国民の生命と財産を護る」為に存在するのであれば、当時の日本政府の主張通り
「その国の国情と民情に即して適切に制定」されるものと考えます。 その国の人間がその国の言葉で創るものではないでしょうか? 同じ平和憲法でも、決して「アメリカ原理主義」に迎合する事なく、アジアを見据え日本の文化・思想に基き日本人が考え日本人の言葉で創るべきです。 日本の代議士や法曹会の方々が、
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Subject:「澤田の論〜よーく考えてみようpart2〜」 |