芋煮会のはじまり                              烏兎沼 宏之  元禄七年、米沢藩の御用商人西村成政、西村久左ェ門によって最上川にある黒滝の難所がほりわられ、長崎から荒砥に至る航路が新設されるまでは、現在の中山町長崎附近が最上川舟運の終点であった。当時の最上川は、ずっと南の方を流れていたが、左沢方面から村山盆地に入り、流れが大きく左折するところ、ちょうど中山町中央公民館の西のあたりに舟着場があったという。  いまは、そこを左沢線が通っているが、大正の終りころまで、すぐそばに「鍋掛松」という老松があって、そこが船頭たちの休み場だったという言い伝えがのこっている。酒田から船で運ばれてきた塩や干魚などの物資はここで降ろされ、人足たちに背負われて、狐越街道を越え遠く西置賜地方へと運ばれて行ったのである。 ところで、なにもかも不便な当時のこととて、酒田船と人足間の連絡などうまくとれるはずがなく、船頭たちは舟に寝泊りしながら、何日も何日も待たなければならなかった。その退屈しのぎのーつとして発生したのが芋煮会である。舟着場のすぐ近くには里芋の名産地である小塩という集落があるので、前々から予約しておいた里芋を買い求め、舟に積んで来た棒だらなどの干魚といっしょに煮て、飲み食いしながら待ち時間を過ごしたのであった。その時、そばにあった松の技に縄をつるして芋子煮をしたので、この松が「鍋掛松」と呼ばれるようになったという。これが、中山町長崎地方に伝えられている芋煮会のはじまりである。  こうした芋煮会の由来はさまざまだが、なかでも千歳山附近の山芸者たちの料理から始まったという説が有力である。しかし、山芋ならともかく、低い土地ほどよくできる里芋が主であることと矛盾が生じて来る。里芋は、川のそばの「ズグダラ畑」と呼ばれる、年に何回も水を冠っては引き、冠っては引きする土地によくできる作物で、昔から小塩附近はその名産地として知られていた。わたしの家などでも、昔は、土間に山盛りの里芋を小塩から買い求め、皿沼(寒河江市)のさつま芋といっしょに山形市の知り合いなどに配ったものだった。こうした里芋の名産地がそばにあるからこそ、芋煮会というような料理も考え出されたのであろう。  ところで、昔は「芋煮会」とは呼ばれず、ただ「芋煮」とか「芋子汁」とかと呼んでいた。「芋餅」といって、里芋と餅米をいっしょに炊き、ついて餅のようにしたものもあったが、里芋は糧のー種と考えられ、どこの家でも三升鍋か四升鍋にごっそりと煮て、米の節約をはかったのであった。もちろん、いまのように、地区民が集まり、秋晴れの最上川原で芋煮をして楽しむということもあったのである。  芋煮会で牛肉を使うようになったのは、昭和の初め頃からである。養蚕農家の人たちが、秋蚕後に総会を開き、最上川原に繭業者を招待して芋煮会をやっていたが、その経費は業者が負担してくれたものだそうだ。それで、「どうせ出してもらうなら、牛肉を入れて食ってみよう。」とうわけで、ようやく普及しはじめていた牛肉をおごらせたのが最初だということである。 中山町の最上川沿い、下川・三軒屋・落合部落などには、船頭を職としている者が多かった。しかし、昔から船頭たちの社会的地位は低く、百姓以下に見られていたという。その船頭たちも、明治の末期、奥羽本線の開通にともなって職を失い、養蚕に切り替えてほそぼそと生活を立てることになってしまった。不用になった酒田船の船板は屋根裏に上げ、養蚕の足場に利用した。  この船板は、近年の新築ブームで古い農家が解体されるとともに、ぞくぞくと発見された。長さ八間半の快速船だった小鵜飼船、支流の村々へ物資を運ぶのに使用した瀬取船、それにニ百俵以上もの米を積んだというひらた船の厚さ7センチもある船底板。これらの船板断片は、その他の舟連関係資料とともに、いま、中山町立歴史民俗資料館に保存されている。また、この辺の旧家には、舟運によってもたされた雑器類が多いといわれているし、京都弁の影響とみられる独得なことばものこっている。このように酒田船の往来は、この地方に独自の文化性を育てたのであった。  芋煮会のはじまりもまた、このことと関連づけて考えることができよう。京都地方に里芋と棒だらを煮込んだ「いもぼう」という郷土料理があるということだが、芋煮会の料理も最上川の急流にたくましくいどんで往来した船頭たちが、これに思いをはせながらつくり出し、発展させたものではなかったのだろうか。 芋煮会は、こうした船頭たちの手づくりにふさわしい、素朴さとたくましさを兼備えた郷土料理だと、私は思う。           烏兎沼 宏之著「芋煮会のはじまり考」より引用